語り手の名《十五話後編》
やがて、足音が近づく。
踏みしめる音は軽やかで、けれど、凜とした意思を含んでいた。
「……母さま」
~~ ~~
振り返らなくても、それが誰かは分かっていた。
ヴァルセリナは、微笑を浮かべたまま、やさしく言葉を紡ぐ。
「来たのね、アリアエッタ」
「ええ。
今日は……あなたに会いに来たの」
アリアエッタは隣に立ち、並んで碑文を見つめた。
ふたりのあいだに、言葉は多くなかった。
けれど、その沈黙こそが、すべてを語っていた。
戦いの中で引き裂かれ、互いを敵として見ざるを得なかった母娘。
それでもいまは、名もない村の片隅で、
ただ“ふたりの女”として肩を並べている。
過去を悔い、未来を夢見て、
それでもなお、生きているということ。
それこそが、この場所でふたりが得た、ささやかで、あたたかな奇跡だった。
「あなたは、もう……私を超えていったのね」
春の陽射しを背に、ヴァルセリナがぽつりとつぶやいた。
「あのころ、私は剣で道を切り拓くしかなかった。
命を護るために、命を奪うことしかできなかった。
でもあなたは、違う道を選んだ。
誰かの王にもならず、剣を掲げることもせず――
言葉で、歩みで、世界を綴っていこうとしている。
それが、どれほど難しく、どれほど尊いことか……」
そのまなざしに、かすかに揺れる光が宿る。
「あなたが選んだ道を、私は……誇りに思うわ」
その声には、誇らしさと、ほんの少しの寂しさがにじんでいた。
けれどアリアエッタは、やわらかく笑い、首を振る。
「ちがうよ。
わたしは、あなたを超えたんじゃない。
玉座を継いだわけでも、
あなたの過去を否定したわけでもない。
わたしはただ、“語る”ことを選んだの。
自分の足で歩き、自分の言葉で、この世界を綴る道を――」
それは、昔“剣を掲げた母”と、“囚われた娘”の物語を超えて、
“継がなかった娘”が、“継がなかったからこそ紡げた未来”への道だった。
王位も、復讐も、神への従属も受け継がず――
けれど、母の祈りと誇りだけを、こころの奥に灯して。
背後から吹いた風が、ふたりの髪をふわりと揺らす。
それは、王座の陰にいた娘が、
ようやくひとりの人として立ったしるしだった。
そして、その姿に微笑みを返した母のまなざしには、
かの“魔王”ではない、“母”としての温もりが宿っていた。
誰かの期待に応えるのでも、使命を果たすのでもない。
自分自身の意思で、歩く道を選ぶこと。
それが、アリアエッタが辿りついた答えだった。
風が、ふたりの頬を撫でる。
春の香りを含んだ風が、記憶と誓いをさらっていくように、
やさしく吹き抜けていった。
村のほうから、また子どもたちの賑やかな声が聞こえてくる。
「ぎゃーっ!
ポッタがまた転がってきたーっ!」
「ぐぬぬぬっ!
転がったのではない!
これは加速式退避行動でありますっ!」
「ねーねー、今日はおままごとしようよ!
ポッタはお母さん役!」
「断固として却下であーる!!」
アリアエッタは、思わず吹き出した。
その笑顔に、ヴァルセリナもやさしく微笑みを返す。
光と風と、笑い声と――
この世界は、たしかに生きていた。
***
アリアエッタは、石碑の前からゆっくりと歩き出した。
風が草を揺らし、空には鳥たちが輪を描いている。
広場では、コッポラッタ大尉が今日も子どもたちに振り回され、
遠く畑では、レイヴァンとアルヴァスが村人と共に鍬を振るっていた。
誰もが、それぞれの“役割”ではなく、それぞれの“日々”を生きていた。
アリアエッタは、田舎道を歩く。
道すがら、彼女に笑いかける人がいる。
声をかける子どもがいる。
花を手渡す老婦人がいる。
そのひとつひとつが、彼女にとっての“かけがえのない現実”だった。
一歩ごとに、彼女の名が、この大地に刻まれていくようだった。
それは、かつて誰かに与えられた“役割”ではなく――
自らの歩幅で選び取った、“語りの道”だった。
彼女はもう、「囚われの姫」ではない。
誰かに守られる存在でも、誰かを導く女王でもない。
ましてや、世界を滅ぼす“厄災の姫”でも、“救世主”でもなかった。
アリアエッタ・ルヴィ・エール――
それは、物語を語る者の名。
自ら選んだ道を、自らの言葉で綴る、“語り手”の名だった。
***
木陰に腰をおろし、彼女はそっと目を閉じた。
風のざわめきが耳をくすぐり、
空には鳥たちの影が、美しい円を描いている。
その音も、光も、空気のすべてが――
“いまここ”に生きる命の証だった。
やがて、アリアエッタは、膝の上に広げた白紙のノートへと手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、ページがふわりと風に揺れた。
それは、かつて語られなかった“物語の余白”が、
彼女に語りかけてきた合図だった。
ペンを握る手には、まだ迷いが残っていた。
それでも、彼女は書き始める。
しかし、すぐにペン先が止まる。
言葉は、ときに人を救い、ときに誰かを傷つける。
物語は、希望にもなれば、檻にもなる。
だからこそ、書くということは――
世界に、形を与えるということ。
そして、書き直せると信じること。
アリアエッタは、小さく息を吐き、胸の奥でひとつうなずいた。
「これは――わたしが選んだ世界の記録。
すべてが終わり、そして、すべてが始まった朝に綴るもの」
インクが紙に触れるたび、小さな震えとともに、言葉が息づいていく。
それは、“囚われた姫”が、“語る者”へと生まれなおす瞬間だった。
筆跡はまだ拙く、ところどころに迷いもあった。
けれど、そこにはたしかな命の鼓動が宿っていた。
そして彼女は、ひとつ息を吸って言う。
「行こう。
風の吹くほうへ」
その声に応えるように、草がそよぎ、
空が、ゆるやかに輝きを増していく。
アリアエッタは、立ち上がる。
白紙のページに綴られた最初の一文が、風に乗って、世界へと溶けていく。
一歩、また一歩。
それは、過去をなぞるためでも、誰かの道をなぞるためでもない。
自らの言葉で世界を歩む、“語り手”の歩幅だった。
空を渡る風が、祝福のように頬を撫でる。
どこから来たのでもなく、どこへ向かうのでもなく――
いま、この瞬間を通って、彼女とともに在る風だった。
物語は、つづいていく。
終わりではなく、始まりとして。
澄んだ風と、彼女の歩みが交わるところから――
再び、幕が上がった。
▼ 十五話おわり。
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