第三章
空白の章《十三話前編》
神は、死んだ。
天を突き破っていた光の柱は砕け、闇の深淵へと散った。
世界を覆っていた神の法も、音ひとつ立てずに崩れ落ちる。
中心にあった神の核――あらゆる秩序の源は、無残に粉砕された。
そして、やがて世界のすべては、深い眠りにつくように――
ひとつの静寂へと沈んでいった。
***
風が止み、時が凍り、音が消える。
あたかも、世界そのものが息を潜めたように思えた。
しかし、それは終わりではなかった。
アリアエッタ・ルヴィ・エールの足元に、ふわりと光の粒が舞い降りる。
砕けた神の核からあふれ出した光は、彼女のもとへと集まり始める。
彼女を新たな選定者として認めるかのように――
それは、温かさとやわらかさを秘めて、そっと寄り添った。
魔奏剣《ラ・ヴィ・アン・フルール》
一度は神の定めすら断ち切ったその剣が、いま再び、ほのかに輝きを取り戻す。
剣を包む光の粒は、意思を宿したかのように舞い、仲間たちの顔をやわらかく照らした。
アリアエッタは、足を踏み出す。
誰もいない空間の中で、迷わず前を見据えて。
その瞳に映るのは、剣の刃に宿る――神の定めを断ち切った、あの光だった。
定められた物語。
語られるだけの姫。
そのすべてを――自らの意志で乗り越えるために。
アリアエッタは、さらに進み出す。
それは、物語の檻を壊すための一歩だった。
***
そして、剣を振り上げ――
何もない虚空を、まっすぐに斬り裂いた。
――そのとき。
斬られた空間が、音を立てることなく割れた。
その裂け目は、やがてまばゆい光を宿す“扉”へと変わっていく。
「いこう!」
短く、しかし力強く告げるアリアエッタの声に、仲間たちは迷いなくうなずいた。
レイヴァン・セラトリアスは、ゆっくりと前へ進む。
アルヴァス・セラトリアスは、兄の背を支えながら、そのあとにつづく。
ヴァルセリナは、一度だけ足元に目を落とし、
かすかな微笑を浮かべて、扉へと向かった。
コッポラッタ大尉は胸を張り、金属音を立てながら最後尾についた。
五人は、開かれた扉の向こうへ――
新たな世界へと、歩を進めた。
***
その先に広がっていたのは――
白の聖域。
雪のように白く染まった大地。
けれど、それは雪ではなかった。
無数の光の粒子が降り注ぎ、空と地の境界を曖昧にしている。
重力も影も、現実の輪郭すら溶け落ちたこの場所に、彼女らはそっと降り立った。
アリアエッタは、ためらいなくその先へ向かう。
ふと、視界の先に、小さな蝶がふわりと宙を舞うのを見つけた。
「……あれは……」
そっと手を伸ばす。
蝶の姿はかすかに揺れながら、やがてゆっくりと形を変えた。
それは、革装丁の古びた本。
どこか、誰かの記憶を映したかのように――
ゆるやかに、空中を漂っていた。
***
金の箔押しで刻まれた題名が、淡い光をまとっていた。
アリアエッタはそれをじっと見つめ、そっと声に出して読み上げる。
「……『囚われの姫と、勇者の物語』」
その名を口にした途端、本は空から舞い降り、導かれるように彼女の手の中へ収まった。
しかし、その題名には――どこか、欠けているものがあるように思えた。
けれど、それが何なのかは、すぐには言葉にできなかった。
――語られる者の名は、はっきりと刻まれている。
だが、語る者の名は、どこにも記されていなかった。
“囚われの姫”と“勇者”――
ふたつの名が並ぶ、そのあいだに。
本当は、もうひとつの“誰かの物語”が、隠されていたのではないか。
あるいは、“誰かの名”が、意図的に消されていたのではないか。
語られるばかりで、語ることを許されなかった存在――
それは、あの頃の自分。
囚われ、ただ待つしかなかったあの頃の、“名もなき姫”だった。
***
アリアエッタは、胸の奥にかすかな違和感を抱いていた。
風もないのに、ページが一枚、ぱらりと捲れる。
そこからあふれ出した光が、幻のように空間を染めていった。
そこに浮かび上がったのは――
どこかで見たことがあるようでいて、けれど決して見たことのない、“もうひとつの物語”
ページが一枚めくられたそのとき、
白い聖域全体が、たおやかに揺れて、色づきはじめる。
それは、光で織られた幻影。
夢のように曖昧で、けれどどこか、現実味を帯びた映像だった。
***
「むかしむかし、あるところに、囚われの姫がいました――」
乾いた、平坦な声が、どこからともなく響いてきた。
感情のない、“記録”を読み上げるかのような声音だった。
「姫は、ただ勇者を信じ、待ちつづけていました。
けれど、勇者は来ませんでした。
姫は、理由もわからないまま、闇に呑まれ……
ひっそりと、物語の中で消えていきました――」
その声に呼応するように、幻影が空間に浮かび上がる。
そこに映し出されたのは、窓のない石の部屋。
中央に、ただ黙って座る、一人の少女の姿。
顔は映らない。
けれど、誰よりもアリアエッタ自身が、それが“自分”だと気づいていた。
胸の奥に、じくじくとした痛みが広がっていく。
言葉にならない――
こころの深層を、冷たい指でなぞられたような、鈍く重たい痛みだった。
「これは……」
誰にともなく、アリアエッタがつぶやく。
「……もし、あのとき、誰も来てくれなかったら。
もし、あの牢の中で終わっていたとしたら――」
それは、“ありえたかもしれない未来”
否――今この場所にいなければ、きっと辿っていたはずの、もうひとつの結末だった。
***
ページが一枚、そっと捲れ、次の幻が映し出される。
そこには、勇者が魔王を倒し、世界を救う“英雄譚”が描かれていた。
けれど、どこにも姫の姿はなかった。
彼女は、語られることのない、ただの背景の一部にすぎなかった。
その名も、物語の中には記されていない。
だが、よく見ればわかる。
言葉と絵の隙間――
そこにぽっかりと空いた空白がある。
それは、“誰かがいた”という痕跡だった。
一度描かれていた姫の姿だけが、意図的に削り取られたかのように。
さらにページがめくられる。
そこにあったのは、魔王がすべてを支配する世界。
力と恐怖によって築かれた、冷酷な秩序の物語。
だが、そこにもまた、姫の姿は存在しなかった。
アリアエッタは、そっと拳を握る。
(どちらの物語にも、私は――いない)
***
そのときだった。
心臓の鼓動だけを残して――
世界から、すべての音が消えた。
空気は凍るように張り詰め、
指先の動きさえ、どこか遠くの出来事のように感じられる。
ただそこに、“何かが始まる”という確信だけが、重く沈んでいた。
アリアエッタの目の前に、淡い光の魔法陣が浮かび上がる。
幾重にも重なる円環と紋様が、ひそやかに空間を満たし、
やがてその中央に、三つの言葉が浮かび上がった。
▼ 十三話後編へつづく……
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