終わりと始まりの聖域《九話前編》
世界崩壊以前――
軍事と商業の中心地として栄えた王都、グレスガルド。
だが、いまこの地には、生命の気配がひとつとして残されていなかった。
灰色にくすんだ空の下、崩れ落ちた街並みだけが、果てしなくつづいている。
高くそびえていたはずの王城も、すでに壁の半分が崩れ去り、
空を突き刺していた尖塔は、斬られた首のように、地に転がっていた。
砕けた噴水はとうに枯れ果て、
乾ききった風だけが、石畳の上を、虚しくかき乱している。
***
アリアエッタ・ルヴィ・エールは、廃墟のなかを――ただ、まっすぐに歩いた。
かつてこの城に、王女として迎えられた日の記憶が、いまも胸に残っている。
そのとき、胸を満たしていたときめきは、確かにあった。
けれど、今となっては――その記憶さえ、彼女の足を止める理由にはならなかった。
焼け焦げた壁。
ひび割れた石畳。
どんなに荒廃した景色も、彼女の歩みを奪うことはなかった。
それでも、アリアエッタのまなざしは逸れることなく、それらを見つめていた。
目を背けることは、できた。
見なければ、こころが痛まずに済んだかもしれない。
けれど彼女は、そうしなかった。
見たくないものを、きちんと見ること。
失われたものを、“失われた”と認めること。
それこそが、前へと進むということ――今の彼女は、それを知っている。
だからこそ、アリアエッタはまっすぐに前を見た。
歪んだ街並みに。
沈んだ空に。
あの頃の記憶を重ねながら――
それでもなお、踏みしめていく“現在”を、拒まなかった。
***
けれど――
そのこころのどこかには、いまも静かに、
この地に刻まれた“誰かの暮らし”の残響が、息づいていた。
あの日。
城に招かれた王女として、笑みを交わした人々がいた。
憧れを抱いた、石畳の広場があった。
焼き菓子を手に、はしゃぐ子どもの姿があった。
祝福の花が舞い、音楽が響いた、大通りがあった。
ほんの一瞬のことだった。
けれど、まぎれもなく――そこには、“日常”が息づいていた。
いま、それらはすべて、瓦礫と灰に埋もれている。
声も、匂いも、形も、もう何ひとつ残っていない。
だからこそ、アリアエッタは目を伏せなかった。
この足で踏みしめている石畳の下に、
もう手を伸ばせる過去など、どこにも残ってはいないと知っているから。
残されたのは、たったひとつ。
“選びなおす現在”だけ――それだけが、確かなものだった。
「……変わり果てたな」
隣を歩くアルヴァス・セラトリアスが、ぽつりとつぶやいた。
アリアエッタは、何も答えなかった。
ただ、胸の奥に沈んでいく重みを――
ぎゅっと、握りしめるようにして。
こんな光景を、いまさら嘆くつもりはなかった。
嘆いたところで、何ひとつ、取り戻すことなどできはしないのだから。
***
彼女が向かうのは――
この国を支えた人々が、最後に祈りを捧げた地。
滅びの果てに、なおもそびえる、唯一の聖域。
その名は――《神殿サンクザナ》
険しい山脈を越えた先にあり、
災厄の手が届かなかった、ただひとつの場所。
アリアエッタは信じていた。
この地に、きっと答えがあるのだと。
「姫殿、見えてきたでありますぞ!」
先をゆくコッポラッタ大尉が、金属の腕を振りながら声を上げる。
そのとき、雲間に細い裂け目が生まれ、
その奥に、影のように浮かび上がる巨大な建造物があった。
それは、山脈の岩肌に溶け込むように築かれた、幾重もの尖塔を擁する神殿。
天へと突き立つ塔は五本。
中心の主塔は、雲より高くそびえ、
その頂からは、かすかに白い光が降り注いでいた。
外壁は、光の加減によって銀にも白金にも見えた。
風化ひとつ許さぬほど、完璧に保たれている。
正面には、巨大な石の扉――
いや、“扉”というより、もはや“壁”と呼ぶべき、圧倒的な厚みを持つ門がそびえ立つ。
その表面には、三つの文様が刻まれていた。
剣。
天秤。
そして、開かれた書。
それはあたかも、“問う者”を選別するための“書板”であるかのようだった。
剣は“裁き”を。
天秤は“均衡”を。
開かれた書は、“記録”を象徴する。
神はこの三つの象徴をもって、
世界の運命を裁き、傾きかけた理を正し、
そして――
すべての選択を、“物語”として刻んできたのだという。
五本の尖塔にも、それぞれ意味があった。
天・地・命・理・語――
この世界を成り立たせる“五つの柱”を象徴し、
中央の主塔は、神そのものの“視座”を示していると伝えられている。
《サンクザナ》とはすなわち、
神の筆先が初めて触れた“最初の頁”にして、
いまなお、最後に残された“白紙”でもある。
世界が滅びても、この地だけは、記録から除外された。
それはきっと――神がまだ、この場所で“問いを待っている”からかもしれない。
***
いにしえより、こう語られてきた。
――“神は、すべての物語を記す者にして、その始まりを綴る筆先であった”
――“けれど、神は終わりだけは記さなかった。
それは、選ばれし者が記すべき“答え”だからだ”
《サンクザナ》
それは、“余白”を宿す聖域。
最初の旅人が扉をくぐり、戻らなかったあの日から、
人々はこの地を「終わりの聖域」と呼ぶようになった。
五本の尖塔には、それぞれ名が与えられている。
“天”と“地”
“命”と“理”
そして――“語”
それらは、世界を構成する“五つの柱”
同時に、“神の問い”に至る“五つの試練”でもあると、語り継がれてきた。
そして、中央にそびえる主塔。
あれこそが、“神の視座”――
物語の行く末を見届ける、沈黙の眼差し。
いまなお答えを待ちつづけるその場所は、
神々が降り立ち、世界の均衡を定めたとされる――“はじまりの地”
《聖暦書》に記された、最初の一節。
『神は聖域を築き、その座に座して、選ばれし者の願いに耳を傾けた』
それが、この神殿の起源だった。
王たちはここで戴冠し、
勇者たちはここで祝福を受けた。
そしてまた――
この地に至った者のすべてが、“神に試された”という。
望みに見合う覚悟と信念なき者は、
その扉の前で、跡形もなく姿を消した――
そんな伝承さえ、残されている。
古き神話は、こう語る。
“最初の旅人が、願いを携えてこの地に至り、
扉の前でひざまずいたとき――
神は剣を振るわず、ただ言葉ひとつで彼を消し去った”
それは“試練”の名を借りた、選別の儀式だった。
滅びのなかで、ただひとつ崩れなかったのは――
神がそこに、なおも“在る”からなのか。
それとも、“神を名乗るなにか”が、
いまもこの地に、問いを残しているからなのか。
《サンクザナ》
それは、終わりと始まりの交わる場所。
そして、“真実の名”へ辿り着くための――
最後の問いが眠る場所だった。
***
胸の奥が――かすかに、震えた。
神殿へと近づくたび、空気は冷たく、重く、張りつめてゆく。
それでも、アリアエッタの歩みが止まることはなかった。
山道をのぼる石段。
その途中で、最初の異変が訪れる。
ザァ……ッ。
耳を打つ音とともに、白い霧が足元を這い上がってきた。
たちまち膝を覆い、腰を包み込み、世界を白く呑み込んでゆく。
「霧……? いや、これは……」
コッポラッタ大尉が剣の柄に手をかけ、鋭く周囲を見渡す。
小さな身体をぴんと張りつめ、全身で警戒を示していた。
「……ただの自然の仕業じゃない。気をつけて!」
アリアエッタの声には、確信がこもっていた。
この霧には、明確な“意志”が宿っている。
――ここから先へは、進ませない。
そんな拒絶の力が、皮膚を刺すように伝わってくる。
「結界の霧……まさに、神域の幕が如しでありますな」
誰に向けるでもなく、コッポラッタ大尉がぽつりとつぶやく。
「つまり、この先に……“守られている何か”があるってことだ」
アルヴァスが剣を抜き、慎重に前へ出る。
三人は、背中を合わせるようにして――
白く沈みゆく霧の中へと、身を滑らせた。
▼ 九話中編へつづく……
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