第45話 許嫁

「い、『許嫁』って……?」


 虎之助の出したその単語を、俺は半分真っ白になった頭で繰り返す。黒咲にそんなものがいるなんて初耳だった。


「半年前、氷華が17になった時に言い渡しておいたのだ。黒咲家の長女に相応しい婿を選定しておいたぞ」


 例によって使用人を介して、黒咲には話が行っていたらしい。半年前というと……ちょうど俺が黒咲を拾った頃か。


「アメリカで起業しているエリートだ。家柄も申し分なく、学歴やその他の教養もある。儂に似て仕事熱心でな、素晴らしい若者だぞ」


 虎之助の基準で選ばれた婚約相手。家庭を顧みず仕事に没頭するタイプらしかった。


「おい。お前は話を受けてたんだな?」


 黒咲の肩をゆすって問い詰めると、視線を合わせなかった彼女は「一条君には関係ない」と前置きしたうえで、フィアンセとの間柄について説明した。


「直接の面識はないわ。お父様たちが勝手に盛り上がっているだけで、私にとってはまったくの他人よ」


 縁談を進めているのは双方の親同士らしく、そこに黒咲本人の意思は考量されていなかった。相手とは会ったこともなければ、メッセージ等のやり取りなどもしたことがないという話だった。


「その話が持ち上がった直後か? お前が家を出たのは……」


 黒咲はやはりこちらに視線をくれなかったが、横顔を向けたままでこくりと頷いた。


「……耐え切れなくなった……。限界を迎えてしまったのだわ……」


 そこで俺は、はっと思い当たる。風邪をひいて寝込んでいた黒咲が、一度言いかけてやめてしまった内容――。


「もしかして……。あの時言い淀んでたのは……」


 苦しそうな表情をしていたから、辛い出来事なのだろうとは思っていたが。これほどまでにショッキングな事柄が出てくるとは予想だにしなかった。


「そう……。結婚相手までも一方的に押しつけられて、私は父から――この家から逃げる覚悟をしたの」


 そんな娘の気持ちなどおもんぱからず、虎之助は自分の主張ばかり押し通そうとする。


 独善的・排他的――。そんな印象を、俺は黒咲虎之助という人間から受けた。


「今後娘には一切近づくな。連絡をとるなどの手段も禁ずる」


 徹底的に俺と黒咲のつながりを断とうと躍起になっていた。


「……嘘だろ……」


 これまでの黒咲との日々に、俺は想いを馳せる。


 最初はなんだこのお嬢様と思った。

 料理は壊滅的。自家用車移動ばかりしていたせいで地理に疎い方向音痴。毒舌・無愛想……。


 ファンクラブの会田に目をつけられた時などは、ああするしかなかったとはいえ勝手に"執事とお嬢様"の関係に仕立て上げる。おかげで荷物持ちみたいなことまでさせられたな。


 それまで気ままな一人暮らし生活を満喫していたというのに、風呂やトイレにも気を遣うようになっちまった。ユニットバスを知らなかった黒咲が尿意を催して、湯船に浸かる俺の隣で用を足したこともあったな。


 学校じゃ"完璧"とかうたわれてる黒咲だったが、家に財布を忘れたから昼飯を買うことだってできない。中身ポンコツなお嬢様のために、毎日弁当をこさえる羽目になっちまったぜ。


 登下校の面倒も見なきゃいけないし、コインランドリーの使い方から何から一から教えなきゃならない……。まったく世話の焼けるお姫様だと思ったよ。


 でも……。


 洗濯の待ち時間にマクドナルドで打ち明けてくれた。育った環境が違うせいで同級生たちと馴染めずにいたが、本当は友達とファストフードに立ち寄るような日常が、黒咲には憧れだったんだ。


 家で禁止されていた民放の学園ドラマも、俺の部屋で食い入るように視聴していた。今では三枝と感想を交換し合っていて……どこにでもいる普通の女の子だって気づいたんだよ。


 妹と一緒に花火を見たことも。

 光也や三枝とテスト明けに打ち上げをしたことも。

 雨の中一本の傘で帰ったことも……。


 今となってはどれも大切な思い出で……同じ傘に入っている時に、俺は思ったんだ。


 このままずっと一緒に歩いていたい――。


 ひょんなことから始まった奇妙な同棲生活だったが、もう黒咲のいる日常が当たり前になっていて、隣にいてくれないと落ち着かねえんだ。


 黒咲の世話を焼くフリをして俺は、ただ黒咲という女の子と一緒にいたかっただけなんだと、今ようやく気づいた――。



「……やらねえ」


 黒咲は俺のパートナーだ。許嫁になんてやらねえ……。誰かに取られるなんて嫌だ。


 夏休み前――黒咲が白瀬先輩に告白された時、やつに抱いた感情が嫉妬だったって、今なら自覚できる。


「転校もさせねえし……同棲生活だってそのままだ」


 ずっとあの狭いワンルームで、黒咲と一緒に生きていきたい――。


「……一条君?」


 黒咲が俺の顔を覗き込んでくる。少し離れたところで虎之助も、「何をぶつぶつ言っておるのだ」と不審がっていた。


 こんなたぬき親父に、俺たちの生活を邪魔されてたまるか。


 隣に立つ黒咲の手を、俺はとった。


「え……」


 目を開いたままで固まる黒咲。虎之助は激怒していた。


「汚らわしい手で娘に触るな! どこの馬の骨とも知れん小童こわっぱがあ!」


 黒咲の手を握ったままで、俺は父親に宣言した。


「俺は黒咲のことが好きだ。許嫁にもあんたにもこいつはやらねえ……。俺は拾った捨て猫は、最後まで面倒を見るタイプなんだよ」


「す、捨て猫……?」


 捨て猫じゃねえか。黒咲の家って狭い"箱"に押し込まれてたのを、俺が拾ったんだ。


 きちんと最後まで責任はとる――。


「――黒咲とは俺が付き合う! こいつは俺がもらってく! 文句あるかくそじじい!」

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