第9話 初夜
俺が風呂から出て居室に戻ってみると、黒咲はまだ赤い顔をしていた。すぐ隣で用を足したというのが余程恥ずかしかったらしく、こちらをキッと睨みつけていた。
「先ほどは失礼したわ」
言葉ではそんな風に謝っていたが、表情には『なぜ私が謝らなければならなのか』というはっきりした憤りが表れている。
「いやまあ……。確かに、俺ももっと早く気づくべきだったな」
事前にユニットバスに関する説明を施していれば、黒咲が先にトイレを済ませておくことだってできたはずなのだ。そこまで考え至らず不要のハプニングを招いてしまった。
「とりあえず、風呂入る時は相手にひと声かけてから入ることにするか」
風呂とトイレに関する取り決めをここでしておく。うまく工夫すれば今回のように被ることはないので、ユニットバス問題についてはこれで解決したのだが……。
(女子と二人で暮らすって、色々と厄介だなあ……)
考えることが何かと多すぎる。デリケートなトラブルがこれからも山ほどあるんだろうなと思うと、先行きが不安になってきた。
しかし、拾ってきてしまった以上はきちんと面倒を見なければならない。俺は先にひとっぷろ浴びさせてもらったので、次は黒咲の番だ。
「今度は黒咲が入れよ」
狭くて使いにくいだろうが、庶民の風呂でも入らないよりはましだろう。これから暑くなってくる季節でもあったし、金もないのでは銭湯へ行くこともできない。
「では、お言葉に甘えて」
折り目正しく礼を告げると、着替えなどを持った黒咲は風呂場へと向かう。アコーディオンドアの向こうへ消える際、こちらを振り向いて言った。
「覗かないでちょうだいね」
「覗かねえよ! 庶民の雄 = いやらしいみたいな図式やめろ!」
さっきのシャー音騒動ですっかり変質者扱いされているな……。耳を塞ぎ忘れたのはあくまでうっかりだというのに。
黒咲は露骨に「本当かしら……」と疑う目をしていたが、やがて向こう側へと消えた。ピシャリとしっかり確実にドアを閉め切っていた。
「はあ~」
風呂から上がったばかりだというのに、なんだかどっと疲れを感じる。俺は座卓に突っ伏してため息をついた。
「……」
黒咲のやつ今、すぐそこで裸になってるんだよなあ……。
むろん壁で隔てられているとはいえ、狭いワンルームなのでどうしても想像力がかき立てられてしまう。
さっき風呂に浸かっている時だって俺は、トイレ中の下半身丸出し状態な黒咲を思い浮かべてしまっていたのだ。
今度はトイレではなく入浴なので、つまり全身無防備な状態になるはずだ。制服の上やシャツ、その下のブラジャーなども取り払って、一糸まとわぬ姿になっているはずなのである。
俺は教室で見た黒咲のたわわな胸を思い出してしまう。読書する際の黒咲は、大きすぎる胸を机の上にのせていた。光也なども大興奮して見ていたな。
細いのにそこだけ大きなバスト。しなやかな身体は女性らしい曲線を描いて、すぼまったウエスト、引き締まったヒップへと続いていく……。
「はっ⁉」
いかんいかん。つい妄想の世界へと旅立ってしまっていた。
健全な男子高校生な俺とはいえ、これでは光也と同じではないかと反省する。
じっとしているから変なことを考えてしまうのだ。何か作業でもしていようと思い、俺は無理矢理立ち上がった。
「……そうだ」
今のうちに、翌日の朝食やらを準備しておこう。
いつもなら夕飯と一緒に用意してしまうのが習慣なのだが、今日は黒咲が腹ペコ状態で待っていたために、取り急ぎ夕飯だけに絞って作っていたのだ。
「ええと……」
小型冷蔵庫の中を確認すると、幸い材料には余裕があったので二人分でもなんとかなりそうだ。適当なものを引っ張り出して、エプロンを身につけた俺はさっそく調理に取りかかった。
「……よし、こんなものかな」
ひと通りのメニューを作り終えて、心地よい達成感を覚える俺。皿などに盛りつけラップをかけておけば、翌朝チンするだけでありつけるという寸法だ。
使った包丁やまな板なども片づけたら、次は寝床の準備だ。いつもなら布団を敷くだけで完了するのだが、今日からはそういうわけにはいかない。
「布団はお嬢様に譲るとして……」
さて困った。俺は何で寝ればいいんだ? さすがに床の上に直接というわけにはいかない。そんなことをすれば全身の関節が死ぬ。
狭いワンルームなので、ソファーなどの代わりになりそうな家具もない。そんなものを置けば生活苦空間が著しく圧迫されてなんだかんだで死ぬ。
なんかねえかなとクローゼットを漁っていると、奥の方から寝袋が出てきた。確か、去年光也と一緒に家族ぐるみのキャンプをした時のものだ。
これ幸いと久しぶりに広げてみると、問題なく使えるようだったので安心した。俺はこれで寝ることにする。省スペースなので、それほど場所もとらないだろう。
試しに適当な場所に置いてみよう。廊下側は夜中トイレに行く際などに通るので、できれば空けておきたい。となると……。
「うーん……」
黒咲の布団の隣くらいしかないか。さすがに玄関やベランダで寝たくはないしな。
「けっこう近えな……」
この部屋の居室部分は6畳ほどの面積しかない。夕食時に使っていた座卓を壁に立てかけても、ろくにスペースは作れなかった。
そのためほとんど布団と寝袋がくっつくような位置関係になっており、この距離感で男女が一夜を共にするというのはまずい気がしてきた。
どうしたものかと並んだ寝具を見ながら思案していると、風呂から上がったらしい黒咲が居室に戻ってきた。いかにも高級そうな生地のネグリジェを着用している。
「お風呂いただきました。ありがとうございます」
振り向いた俺は、湯上りの彼女に思わず視線を奪われてしまった。艶やかな黒髪はしっとりと濡れており、大人びた色っぽさを漂わせていた。
ネグリジェのボタンはすべて留まっていたが、寝間着であるためにゆったりとしたつくりになっており、鎖骨がちらと見え隠れしている。美しいラインにぽーっとしてしまった。
「何かしら一条君。なにか破廉恥な視線を感じるのだけれど」
指摘されてはっと我に返る。これ以上変態チックなイメージを与えないよう慌ててはぐらかした。
「き、気のせいだろ。ドライヤー、そこにあるから使ってくれ」
なんとか追及から逃れることに成功した。黒咲はまだじろりと疑念のまなこを向けていたが、髪を乾かすために少し移動する。
「あ……」
そこで気づいたようだ。この近すぎる布団と寝袋の存在に。
「あ、あなた……。これはちょっと……」
「違うって! 色々考えたけどどうしてもこの距離になっちまうの!」
とりあえず俺は、間にスクリーンとして段ボールを立てかけることを提案する。布団と寝袋との距離が遠ざかるわけではなかったが、壁ができれば心理的にはだいぶ落ち着くはずだろう。
黒咲は改めて庶民の部屋の狭さに辟易したようだったが、最後には「仕方ないわね……」としぶしぶ了承してくれた。まだ文句を言いたそうにしてはいたが。
俺が適当な段ボールをそれっぽく立てかけている間に、黒咲はドライヤーで長い髪を乾かしていた。風になびくロングの黒髪を見ていると、なんだかシャンプーのCMみたいだなと思ってしまう。
黒咲が髪を整えるのと、俺が段ボールスクリーンを張り終えるのとはほぼ同時だった。今日はお互い何かと疲れていたので、さっさと寝てしまうことにする。
「電気消すぞ」
俺が部屋の照明スイッチを切ろうとする時も、黒咲はまだ布団に入るのをためらっていた。すんすんと臭いを嗅いでいるようである。
「なんだか雄の臭いがするわ。大丈夫なのかしらこれ」
「ファブリーズしたから大丈夫だ。だいぶ失礼なやつだよなお前って……」
こちとら飯を食わせ風呂に入れてやったうえ、こうして布団まで献上しているのだ。なのに露骨に顔をしかめるとは何事か。
「こんな雄の臭いを発散させる庶民と隣り合わせだなんて、夜中に襲われそうで身体が恐怖に震えるわ」
「襲うか! 自意識過剰もたいがいにしろっての!」
とは言ってみたものの、こうして電気を消し並んで寝てみると、隣に美少女のオーラを感じてなかなか寝つけない……。妙に緊張してきてしまった。
初夜? 初夜の緊張なのかこれは。まあ初めての夜という意味ではそうだな。ここまで女に免疫なかったっけ俺……。相手が黒咲だとどうにも調子が狂うぜ。
そういうお嬢様は、ぶうぶうと不満をこぼしたわりにはもう寝てしまったらしい。すうすうという穏やかな寝息が、真っ暗闇な空間に聞こえてきていた。
庶民の生活に驚きっぱなしだったからな、だいぶ疲れていたのだろう。俺にとっては当たり前の生活水準だったのだが、お嬢様には負担が大きかったらしい。
しかしそんな風に考えていると、甘やかされっぱなしのお嬢様に無性に腹が立ってきた。きっと今まで苦労やストレスなどとは無縁の極楽生活を送ってきたに違いない。
これからしばらく一緒に暮らすわけだし、もう少し厳しめでいくか? 蝶よ花よと育てられたお嬢様に庶民の現実を叩きつけるくらいの……矯正するくらいの意気込みでやってみるか。
などと俺が寝袋の中でひとり息巻いていると、ふいに隣から寝言が聞こえてきた。消え入りそうなほどか細い寝言だったが、俺の耳には確かに届いた。
「お母さん……」
その声は、普段の黒咲が発するような気の張られたものではなく――。
「……」
まるで小さな子供が救いを求めるような、無意識の叫びのように俺には聞こえていた。
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