第3話 卓上の乳

 翌日の休み時間。


 机に突っ伏してうたた寝でもしようかと思った俺のもとに、友達の喜多きた光也みつやがやってきた。

 高校からの知り合いだったが、一年生の頃から同じクラスの親友だ。


「聞いたよ和翔かずと。昨日猫を助けてやったとかなんとかさ」


 相変わらず情報に敏感なやつだ。光也は昨日あの場所にいなかったはずだが、近くで見ていた誰かから聞き及んできたらしい。


 俺は顔を上げて気だるげに答えた。


「おかげでバイトに遅れそうになった。柄にもねえことするもんじゃねえな」


 間に合ったからよかったものの、気まぐれに木登りなんてしてしまったせいで危うく遅刻しかけた。今度似たような場面に遭遇したら、その時は無視してやろうと心に決める。


 光也は空いている席に適当に座ると、こちらに顔を向けておしゃべりに興じた。


「すぐそばに黒咲さんもいたって? 猫好きなのかなあ」


 二年に上がってクラスメイトとなった彼女――黒咲氷華の方を、俺はチラリと見やる。

 今は窓際の自席で本を読んでいて、こちらの会話は届いていないようだった。


「眼福だよねえ。黒髪清楚なお姫様。キャルキャルした感じではないけどさ、学校のアイドルって感じじゃない」


 彼女と同じクラスになれたことを、光也は大変喜んでいるようだ。もっともそう感じているのは光也だけではなく、大半の男子生徒がそうだった。


 すれ違えば必ず振り返ってしまうような、見る者をはっとさせる美貌。男子からだけでなく女子からも神聖視されているというのは、頷ける話である。


「何の本読んでんだろ。小難しいやつかな」


「さあな。俺らが読まねえような、海外の純文学とじゃねえの」


 本のタイトルが気にならないわけでもなかったが、気にしたところで意味がないとも思う。

 お嬢様な彼女と庶民な自分たちとの間に、接点などできようはずもないのだから。


「あの黒咲家の娘さんだもんねえ。代々医者とか政治家とかの家系らしいよ」


 父親は若くして大病院の院長を務めるやり手であり、娘の氷華も医者になることを宿命づけられているとかなんとか。

 どこで情報収集してきたのか知らないが、光也はペラペラと噂話を垂れ流してくれた。


「確かに僕らとは住む世界が違うね。同じ教室にいられるだけで奇跡みたいなもんだ」


 そういえば、と俺はそこで疑問に思う。

 黒咲氷華はどうして、俺らみたいな庶民と同じ学校に通っているのだろうか――。


 普通なら、金持ちの子供が集まるようなエリート校に進んでいそうなものではないか。

 あえてありふれた高校を選択したことに、何か理由でもあるのだろうか……。


(ま、何にせよ……)


 お嬢様学校に通わない理由は不明だったが、だからといって俺と彼女との身分の差が縮まるわけではない。


 昨日は気まぐれで猫の救出なんぞ手伝ってしまったが、あのような出来事はあくまで例外的なものであり、やはり俺らとの間に交流などは生まれようがないのだ。


 そのように光也に言い諭してやると、こいつもその辺りについては重々弁えているようで、手の届かないお姫様だという認識を抱いているようだった。

 高嶺の花だと割り切ったうえで、しかしこんなことも言ってきた。


「でも目の保養にはいいじゃん。ちょっと見てみてよあれ」


 黒咲本人に気づかれないよう注意を払いながら、彼女の方を指差している。どうも胸の辺りを指し示しているようだった。


「見てよあのおっぱい。おっきすぎて机の上にのっかっちゃってるよ」


 黒咲は細身だったが、胸の部分だけは制服の上からでも分かるくらい大きく膨らんでおり、本を読む姿勢になると机にのってしまうようだった。


 一方でスカートから伸びる脚は細いので、全体的にはやはり華奢で儚げというイメージではあったが。唯一その清廉な印象を裏切る要素が、グラビアアイドル並みのわがままな巨乳というわけだ。


「一度でいいから揉んでみたいよねえ~」


 確かに男子高校生の理想をそのまま形にしたような悩殺プロポーションだとは思ったが、俺は光也ほどあけすけな人間ではない。

 露骨に鼻の下を伸ばす親友の姿を、はあとため息交じりに眺めていた。


「彼氏とかいんのかな。どう思う和翔?」


「そういう情報にはお前の方が明るいだろ。俺は知らん」


「僕の方にも特に届いてないなあ。彼氏どころか、仲いい友達とかもいないみたいだよ?」


 それは俺も風の便りでちらっと耳にしたことがある。

 黒咲氷華はいつでも注目の的だったが、その人気ぶりに反して親しい人間などは皆無だという話だった。


「"氷のお嬢様"ってところかな。名前の通りクールな印象だよね」


 それは俺も思う。黒咲はまるで厚い氷で心を封じ込めているようであり、その氷を解かすことなどきっと誰にもできはしないのだ。


 近寄りがたい存在――。そんな印象を彼女から受けるのは、俺や光也だけではない。


 遠くからきゃいきゃいと騒ぐような連中も、みな一様に一定の距離を保って観察している。他を寄せつけない黒咲のオーラにびびってしまい、踏み込んでいくことなどできないのだ。


 試しに光也に「彼氏に立候補してこいよ。揉ませてくれるかもしれないぞ」と軽口を叩くと、彼は「冗談」と軽く受け流していた。


「僕らみたいな庶民、友達にだってなれっこないよ」


 とまあこんな具合で、男子も女子も黒咲に対しては距離を置いている。またそれでいい、そうするべきだと皆が信じていた。


「そう……。そうだよな」


 俺だって、光也やその他大勢の意見に賛成だ。あえて身分違いを乗り越えようとしたところで、お互い育ちの違いなどに戸惑わされるのがオチだろう。


(けど……)


 光也から視線を離して、窓際のお嬢様の方を見やる。


 ほんの一瞬だけ目が合った孤高の姫君は、俺の目にはやはりどこか寂しそうに映っていた。


 まるで昨日高所から降りられなくなった野良猫のように、孤独に耐えながら助けを求めているように見えていた。

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