ピンポンが鳴りません……1
……ピンポンが鳴りません。
いや、鳴らなくてもいいんですけど。
別に毎晩、出会おうとか約束してるわけじゃないですから。
一度別れたんですしね、ええ。
いいんです、別に、と思いながら、明日香はもう風呂にも入ったのに落とさずにいた化粧を落とすかどうか、洗面所で迷っていた。
鏡の中の自分は、化粧しているのに、どす黒い顔色をしている。
なにかが憑いている人のようだ……と思ったせいか、後ろのタンスの上から女の霊っぽいものがだらりと手を下げているように見え、びくっ、と振り返ってしまう。
だが、それは、畳んだはずの黒いパーカーの片袖が垂れ下がっていただけだった。
間抜けだ……と思いながら、畳み直す。
もう寝よう……と思いながら、明日香はトボトボ戸締りをする。
玄関まで来たとき、足を止め、じっと開かない扉を見つめてしまった。
恋愛ってこういうものなんだなあ、と初めての経験にしみじみと思う。
いつも頭の九割を葉月さんが占めている。
いや、仕事のことも考えて……と緋沙子に言われそうだが。
葉月さんは、頭のほとんどが仕事っぽいなあ。
あとはクラゲのことかな。
あ、それと、ちょっぴり、明日香のことも。
私じゃなくて、こっちの、とスイスイ泳いでいる明日香を見つめる。
……確かに太ってきたな、と思いながら。
秀人を
この図太さがいっそ、うらやましいな、と思って眺めていた。
葉月さん、貴方の頭の何処かに私は居ますか?
ひょこっとクラゲの陰からでも顔を出してはいませんか?
水槽の片隅に、小さな自分がちんまり顔を出したものの、上下するクラゲに弾き飛ばされて、結局、秀人の視界には入らない、というところまで妄想したところで、
……なんかむなしくなってきたな、寝よう、と思う。
ベッドに入り、部屋を真っ暗にして目を閉じた。
青い光の中を上へ下へと揺れているクラゲを思い浮かべる。
なんだか、眠れずにいると、突然、スマホが鳴り出した。
自分で設定したのだが、昔の黒電話の音にしているので、すさまじい。
ひい。
近所迷惑っ。
だが、飛び起きたのは、それだけが理由ではない。
慌てて手にしたその画面には、『葉月秀人』の名前があった。
葉月さんっ。
よかった!
もう捨てられたかと思ってましたっ。
いやいや、今日来なかっただけでしょ、と秋成が居たら突っ込まれそうなことを思う。
「も……もしもしっ」
と緊張のあまり、喉が締め付けられ、絞め殺されるニワトリのような声を出してしまう。
いや、そんな最中のニワトリの声なぞ、聞いたことはないのだが……。
『明日香?
風邪か?』
と秀人の声がする。
それだけで、なにか、ほっとした。
「いえ、一人なので、ずっと声出してなかったから」
と言ったあとで、
はっ。
今の、もしかして、葉月さんが、今日来なかったことに対する嫌味に聞こえたでしょうかっ? と身構えてしまったのだが、はなから、そういう嫌味の通じる人ではなかった。
『そうなのか』
と流される。
ふう。
助かった、と思いながらも、男の人って、こういう察しの悪いところがあるから、のちのち喧嘩になったりするんだろうな、と思っていた。
『一度別れると言ったから』
と秀人が言い出したので、ぎくりとしたが、
『最初からやり直すつもりで、今日は電話だけしてみた』
と言ってくる。
「そ、そうなんですか」
と少しホッとしていたのだが、そのあと、秀人は沈黙してしまう。
あの……
会話が弾まなかったところまで再現してくださらなくてもいいんですよ、と思いながら、明日香も黙ってスマホを握っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます