第二夜

 地下室に残された骨董品の山を見つけてから数日後。

 家を買う時に名刺を交換した不動産屋から、前の住人と連絡が取れたという電話が来た。

 しかし、その返事というのは、『しばらくそちらに伺えそうにないので、飾っておくなり処分するなり好きにしてください』という、投げやりな物だった。


 高価に見えるものばかりなので捨ててしまうのは抵抗があるが、前の住人の物をずっと持っておくというのもどこか居心地が悪い。

 そういうわけで、小一時間かけて夜鈴と膝を突き合わせて相談した結果、ひとまず骨董品の買取業者に出張査定に来てもらうことにした。

 価値が無いと分かったものは処分してしまい、高価なものは売却してローン返済の足しにするのだ。

 それに、美術品の方も俺たちの手元で死蔵するよりは、こういった古美術に興味のある人の元で管理してもらう方が良いだろう。



 そのような方針を決定した夜。

 俺は不思議な夢を見た。

 例の地下室の真ん中に立っている俺の正面には、あの白無垢を着た女性がたたずんでいた。

 先日見た時には幸せそうに笑っていた、優しい雰囲気を漂わせていた彼女が、今は真剣な表情でこちらを見つめている。

 背後に見える額縁の中には、吸い込まれそうな黒色のみが残されており、彼女がそこから飛び出して来たというのは容易に想像できた。


四片陽夏よひらはるかさん、ですね? 初めまして」


 戸惑いとにじむような恐怖で固まっていた俺に向かって、彼女は頭を下げて挨拶をした。

 その気品ある動作と落ち着いた声に、緊張が少しほどけ、こちらも会釈えしゃくを返す。 


「私は桃染菊乃つきそめきくのと申します。桃色の『桃』に染物の『染』めると書いて、ツキソメです」


 彼女が言葉を発するたびに、何故か心が和らいでいく。

 耳から入ってくる彼女の声が、じんわりとした熱をもって全身に浸透していくような、そんな感覚を覚える。

 今まで会ったことのない、なんとも不思議な雰囲気の女性だった。


「お休みのところに申し訳ありませんが、今日は一つお願いがあってお邪魔させていただきました」


 と、そこで初めて、菊乃と名乗る女性の声が揺らいだ。 


「どうか、私をこの家に置いてもらえないでしょうか」


 意を決したように、少しこわばった表情で、彼女はこちらを見つめる。

 その瞳は不安げに揺れ、今にも涙が零れ落ちそうだった。


「……というのは、あの絵を捨てたりしないで欲しいってことですか?」

「はい、その通りです。どうかお願いいたします」


 そう言って彼女は頭を下げる。

 若い女性が肩をかすかに震わせ懇願こんがんしているのに、冷たく断ってしまうのは、かなり良心が痛む。

 しかし……生きた人間のようにしか見えない彼女だが、ここはあくまで夢の中だ。

 夢から覚めてしまえばただの絵に戻るのに、気を遣う必要なんてあるのだろうか。

 

 それに、夜鈴はあの絵をあまり気に入っていないようだった。

 俺としては別に置いていても構わないのだが……夜鈴の方は、夢なんかを理由に決定を覆すのは許さないだろう。


 きっぱり断ってしまうか、可哀想だからと夜鈴の説得を頑張るか。

 その2つを天秤にかけて少し逡巡しゅんじゅんし、やはり愛する妻の意見を尊重しようかと考え始めていた、その時。


「困ったことがあれば、なんでも助力いたしますので……どうか、ご慈悲を……!」


 断ろうとしているのを察したのか、菊乃は絞り出すような声で言葉を紡ぐ。

 そして、その言葉に俺の中の天秤は一気に逆方向に傾いた。

 なんでも助けになる。絵画の中の存在でしかない彼女がどこまで出来るのかは疑問だったが、もしも文字通りなら非常にありがたい。

 この家の購入に家具の新調、引っ越し……ここ最近は出費がかさんでいたので、今は少しでもお金が欲しいところだった。


「……お金をくれるなら考えてみます。とりあえず、数百万くらいでいいんで」


 どうせこれは夢なのだ。

 駄目元で何か言ってみてもいいだろう。

 そう思って口にした願いに、菊乃はパッと顔を輝かせた。


金子きんすの工面ですね? 承知いたしました。ご期待に応えて見せます」


 そうして小さく張り切る彼女の姿が徐々に白い光に塗りつぶされていき、その日の夢は終わりを迎えた。



 それから数日が経ち、業者が出張買取にやってくる日となった。

 無口な背の高い男と眼鏡をかけた中背の男、それと俺の三人で骨董品の置かれた地下室へと入る。


「地下室に放置されていたと言う割には、状態はいいですね」


 眼鏡の男は箱を一つ開けてみて、感心したようにそう話した。

 背の高い男も黙ったまま頷いている。

 これなら、結構いい額が出るかもしれない。

 そう期待していたのだが……状態が良くても骨董品自体は珍しいものではなかったのか、業者の二人からかんばしい反応は見られないまま査定は進んでいく。


 今日まで何も起こらなかったので、この査定で何かが起こると考えていたのだが、夢は所詮夢だったのだろうか。

 恨めしい感情を込めて、『星見草の乙女』……菊乃の描かれた絵画の方に視線をぶつける。


 その時、何か違和感を覚えた。

 まさか、絵が少し変わっているとか?

 ……しかし、彼女は相変わらず香りを嗅ぐように菊の花を持ち、先日と寸分違わない笑顔を浮かべているように見える。

 一つ、また一つと箱の中身が確認され、彼女のことも値踏みされる番が近づいているのに、それを知らないような純粋な表情のままで。


 ……箱?


 そうだ、箱だ。

 先日あの絵画の下には、空き箱が転がっていたはずだ。

 それがいつの間にか、元々そうであったかのように蓋が閉じられて、彼女の足元に鎮座している。


 その光景の意味するところに気付いて、全身の鳥肌が立つ。


 散らかっているのを気にした夜鈴が俺の知らない内に片づけていたとか、あり得そうな理由を探し出して、暴れる心臓を落ち着かせようとしていたが。

 最後に残された箱を空けた買取業者は、その中身を見て目の色を変えた。



 それから2週間後。

 『念のため専属の鑑定士に鑑定をしてもらってから査定結果を出したい』と言って、箱に入っていた焼き物を持ち帰った業者から連絡が来た。

 まず、他の美術品は高くても数千円の物しか無かった。

 一方で、鑑定してもらった焼き物については五百万円の値がつくと、電話口の向こうで興奮気味に話していた。

 この結果に、俺は菊乃のことを認めざるをえなくなった。


 物のついでに『星見草の乙女』に関しても聞いてみたが、見たこともなければ作者の名前の手掛かりも残っておらず、誰かが趣味で書いた絵なのだろうという話だった。



 その夜、再び夢の中に菊乃が現れた。


「どうでしたか? お役に立てたでしょうか」


 その言葉に俺はすぐさま頷く。

 もはや彼女を手放すという選択肢は、俺の中から消え去っていた。


「ああ、良かった……!」


 菊乃は嬉しそうに笑みをこぼし、俺の手を取る。

 握られた両手からは、菊乃の小さく柔らかい手の感触が、少し低めの体温と共に伝わってくる。

 あまりにリアルな感覚に、これが夢であることさえ疑わしく思えてくる。


「また困ったことがあればお力になりますので、これからよろしくお願いしますね」


 そうして、菊乃との逢瀬が始まった。

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