第14章 勝者の夜は斜陽の前夜
翌朝──。
ユウジが出社すると、文也が先にオフィスに来ていた。目の下にうっすらと隈が浮かんでいる。文也は出社したユウジの姿を認めると、コーヒーの入ったマグを、黙ってユウジの方に差し出した。
「……昨日の夜、ミナと話しました。
あいつの方から兄貴を誘ったって。彼女が言ってました」
ユウジはコーヒーを一口飲むと、短く息を吐いた。
「……正直だな。だが、俺が悪い。少し酔ってた。
それに……ずっと女がいなかったから、つい……」
目を伏せながらそう言うユウジの声には、わずかな悔いと疲労が混じっていた。
演技のつもりだったが、これは本音かもしれないと感じていた。
文也は、苦笑いを浮かべた。
「あいつが悪いんです。前からそういうとこあったんです。キャバクラにいた時も、ちょこちょこ浮気してたの、俺知ってました」
しばし沈黙が流れた。ユウジはマグをデスクに置いて、立ち上がった。
「じゃあ、ミナは今日限りだ。退職金は弾む」
文也は何も言わなかった。うなずきすらせず、ただコーヒーに目を落とした。
翌日から、受付には後から雇った派遣社員が座った。
派遣社員はミナよりかなり小柄だったが、受付の制服のサイズはぴたりと合っていた。ミナがやめることを前提に、ユウジが事前に手配していたのでは? と、文也は感じたが、気づいていないふりをした。
トラブルに見舞われたが、ビジネスは順調だった。
粗利が30億を突破したので、ユウジと文也は、予定より早めに会社をたたむ段取りに入った。
海外に出て、最低半年は日本に戻らないこと──
連絡手段は、ネットでの暗号化されたVPN専用アドレスだけ──
特に、ユウジと文也の個人情報は、可能な限り痕跡を消す──
逃走の準備は、打ち合わせ通りに進んだ。
中野の自宅の解約や、郵便転送の停止、電話番号の無効化は、完璧に行なった。そして個人的に使用していたスマホやタブレットの物理的な破壊。
すべて放って、そのまま雲隠れしても構わなかったが、できるだけきちんと片付けたほうが、足跡を辿られずに済む。
続いて、会社にある『NOX』のデジタルデータはすべて暗号化し、自動消去タイマーを組み込んだクラウド上に保存。二人が出国した、2日間後に消える設計。
オフィスは形だけそのまま残す。ユウジと文也は、ヨーロッパの先端技術視察のため、2週間ほど出張という名目で、しばらく不在ということにする。
会社は通常通り営業しているので、投資家たちが詐欺と気づいて法的手段に訴えるまで、数週間、時間が稼げるはずだ。
ユウジは、新しく取得したパスポートを机に広げた。これは、さすがに本名での申請だ。偽パスポートで、空港で捕まったら元も子もないない。
ユウジの出国先はシンガポール。
仮想通貨の移行先にも選んだ、最もリスクの低い“資産逃避地”だ。
一方、文也はアメリカのロサンゼルス行きを選んだ。
理由は、学生時代に短期留学した経験があり、土地勘があるからだった。
「これが、お前の分」
ユウジは小さなUSBメモリを文也に手渡した。
「1億円分の暗号資産、USDTが入ってる。これで半年、好きに暮らせ」
文也はおごそかな手付きでそれを受け取り、深く頭を下げた。
「兄貴、ありがとうございます。
本当に……ここまで来られたの、兄貴のおかげです」
「まだ終わっちゃいない。残りは俺が持っていく。29億を元手に、世界を股にかけた次の手を仕込む。お前も、いずれ合流しろ。必ず声をかける」
文也は嬉しそうな顔でうなずくと、ミナのことを口にした。
「兄貴のところに……ミナから連絡来てません?」
文也はあの一件以来、ミナが住む家には、帰っていないという。
ヨリを戻す気はないと言っているが、文也の様子を見ると、その決心も怪しいものだ。まして大金を手にしたのであれば……文也がミナをLAに連れていく可能性は、十分にある……とユウジは思った。
「来てる。LINEや電話が何件も。既読もつけてない」
「……やっぱり。あいつ最初から、兄貴に乗り換えるつもりだったんですね」
「だろうな。だが俺を読み違えた。浅はかな女だ」
ユウジの氷のような冷たい言い方に、文也は顔をしかめた。
全ての準備が整ったのは、日本を出国する3日前だった。
その夜、ユウジは文也と宿泊ホテルの最上階で、最後の晩餐を共にした。
文也とゆっくり話す時間は、とうぶんお預けになる。
連絡は取り合うが、半年はお互いの顔を見ることはない。
「こっから見る夜景……綺麗ですねー。考えてみれば、兄貴と出会ってから、そんなことしみじみ味わったことなかったなー」
「後悔してないか?」
「まさか! ありえないでしょ。こんな大金稼がせてもらって、めちゃ面白い体験ができて。それに兄貴と……」
ユウジは、文也がその後に続ける言葉を引き取った。
「ああ、俺もお前に会えて良かったよ。お前は、最高のパートナーだ」
ユウジは文也とワイングラスを合わせ、その後、ワインの芳醇な香りと、東京の夜景を文也と共に味わった。
俺は、自分の能力を証明した。望んでいた通りの頂点を極めた──。
すべてが予定通りに運び、後片付けも完璧だ。何一つ悔いはない。
今日は、酔いが回りそうだ──と、ユウジは思った。
翌朝──。
喉の渇きで目覚めたユウジは、すでに昼近くになり、11時を回っていることに気がついた。ゆっくりとベッドから身を起こし、洗面所で、むくんだ顔を洗う。頭がぼんやりし、微かに痛みもある。
「ヤバいな。少し飲み過ぎた」
今日は特にやることもない。だが、スタッフの手前、一応会社には顔を出さなければならない。
身支度を終えたユウジは、出かける段になって初めて、愛用のノートPCが入っている手提げカバンがないことに気づいた。
ユウジはどこに行くにも、ノートPC入りのカバンを持ち歩いていた。そして、部屋に戻ると、たいていその辺に放り投げた。
「やめてくださいよー、兄貴! これに30億円の資産情報が、ぜ〜んぶ入ってるんですよ」
と叫んで、文也があわててカバンからートPCを取り出し、部屋に備え付けの金庫にしまうのが常だった。
「兄貴って、変な人ですよねー。経理帳簿は、やたら細かく記録するくせに、大事なPCや財布は、その辺に放りっぱなしなんだから」
そんなふうに、文也がいつも神経を遣っていた、ユウジのノートPCが見当たらない。金庫を開けて見たが、中にもない。
ユウジは前夜最上階のバーで、文也と飲んだ時のことを、うっすら思い出した。
少々飲み過ぎて、視界が少し霞んできた時──
「俺、先に寝るわ。ここ、チェックしといて」
と言い残し、自分だけ先にバーを出たこと──。
部屋に戻って、そのままベッドに倒れ込んだこと──。
「わかりました。兄貴のカバン、後で部屋に届けます」
……と、文也は確か、そう言わなかったか?
だが、カバンは見当たらない。なぜ? 文也が預かって家に持ち帰ったのか?
ユウジは文也のスマホにコールした。
圏外——。
LINEを送る。
未読——。
VPNのアドレスにも返信がない。
会社に行ってみたが、文也はいない。
スタッフの誰も、文也からの連絡は受けていないと言う。
──こんなことは、初めてだ。
ユウジの胸に、嫌な予感がよぎった。
ユウジは、文也のオフィスに入った。
いつもと同じように、きちんと片付けられた部屋だった。
文也の私物は、普段通りそこかしこにあり、2日後に蒸発するという気配は、微塵も感じさせない。
ユウジは、デスクの鍵付き引き出しを力ずくで開けた。
文也が愛用している予備のノートPCが、いつものようにそこにあった。
出国前に処分する予定だった、文也のセカンドPC。ここから海外口座にアクセスしたことが何度もある。ブラウザの履歴が、まだ残っているはずだ。
ユウジは、記憶力だけは自信があった。
VPN接続先、口座にアクセスするためのパスワードを、どこかにメモったことは一度もなく、すべてが頭の中に入っている。
ユウジの記憶と、クリックの積み重ねで、数か月にわたって築いた資産の全容を、PC画面に少しずつ呼び戻していく。
最初に確認したのは、国内の架空名義口座だった。
表向きは存在しないはずの、他人の名義を使った回避用の資産。
東京西部に拠点を持つ、ある信用金庫のオンラインバンキングに、裏口経由でログインする。
──残高:¥0
硬直した指で、ブラウザの更新ボタンを押した。
だが数字は変わらなかった。
ログイン履歴は直近で「未明のアクセス」を記録していた。タイムスタンプは、文也と別れた、その数時間後だ。
次に開いたのは、バヌアツのオフショア銀行のアカウント。
長い認証過程を経て、やっとダッシュボードが開いた──が、そこに表示された金額もまた、驚くほどシンプルだった。
──USD 0.00
口座内の送金履歴は、国内口座の引き出しとほぼ変わらない時刻に、「カリブ海の別口座」へと流れていた。
その受取人名義は伏せられおり、見覚えのない英字IDが並んでいた。
最後に見たのは、暗号資産ウォレットだった。
幸い、主要なアドレスは、ユウジの頭の中に、鮮明に残っていた。
ブラウザでブロックチェーンの公開台帳にアクセスし、BTCアドレスを入力。パスワード入力──。
読み込まれた画面が、静かに表示された。
──Balance: 0.00000000 BTC
転送履歴を開く。明け方、たった一度の大口トランザクションが記録されていた。
力が抜けた。
目の前で見ているものが、信じられなかった。
「まさか文也が……? 29億、全部……やられた、ってことか!?」
呻き声と共に呟いてた。
目の裏が真っ赤になり、脳が燃えた。
ノートPCを閉じ、ユウジは、それを床に叩きつけた。
椅子に座り込み、崩れ落ちそうな自分を支えた。
そして、ユウジは考えた。
「いや、絶対、あいつ一人の仕業じゃない!」
暗号資産の送金先ウォレットは、匿名化された混合ルートになっていた。
追跡は不可能だ。
詐欺初心者の文也に、こんな真似ができるはずがない──
と、いうことは──?
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