第一部 - 12話

見学会の終わり、人間くんはロビーでひとり待っていた。

覚ちゃんは「綾理さんに少し呼ばれてて」と言って、別行動中。


スマホを見て、時間をつぶす。

でも、なにかが胸の奥でうずいていた。


綾理さんは、ずっとやさしかった。

それだけなのに、ずっと心が落ち着かなかった。


(あの人、なんで……こんなに落ち着いて見えるんだろう)

(そして、なんで……僕のこと、見抜いてる気がするんだろう)


---


「待たせてごめんね」


綾理さんが戻ってきた。

覚ちゃんの姿はなかった。


「ちょっとだけ、話してもいい?」


---


ロビーの端の休憩スペース。

ふたり、向かい合って座る。


綾理さんは笑って、カップを机に置いた。


「……君、すごく、素敵な人だね」


不意に言われたその言葉に、人間くんは反射的に否定しそうになった。


「……全然、そんな……」


「そういうとこ、だよ」


にこっと笑う。


---


綾理さんは、コーヒーに口をつけながら言った。


「君みたいな人がそばにいるとね、私たちみたいなタイプの人、ちょっと困っちゃうの」


「“全部見せてくれてるのに、触れてはいけない気がする”って思っちゃうから」


人間くんは、目を見開いた。


「私たち、つい“読める”ことに頼っちゃう。

 でも、君みたいにまっすぐで、誠実で、自分が何を感じてるかを素直に信じようとしてる人を見ると……」


「読めないことが、すごく……うらやましくなるの」


---


(……何の話をしてるんだろう)


(“読める”?)


(でも、たぶんこれは……誰かの話)


---


綾理さんは、続けた。


「そういう人が近くにいるとね、“支配したくなる”の。守るって形で、そっと包んで、全部わかってあげたくなって」

「でもそれって、わかってあげてる“自分”を気持ちよくしてるだけだったりして」


「……優しさって、使い方を間違えると、毒にもなるんだよね」


---


沈黙。


人間くんは、自分の胸に残っていた不安や否定が、ほんの少しずつ溶けていくのを感じていた。


(僕が、何か間違ってたわけじゃない……のか)


(あの人が、もし“僕のことを見てくれていた”なら、それは……僕のせいじゃない)


---


綾理さんは、そっと笑った。


「君の“まっすぐ”は、たぶん、私たちにとって……少し危ないくらい、魅力的なんだと思う」


「でもね、壊さないように好きになる方法も、あるよ」


それだけ言って、綾理さんは席を立った。


---


人間くんは、彼女の背中を見送りながら、ふと、胸の奥が少しだけあたたかくなるのを感じた。


---


週明けの朝。

教室の空気は、どこか静かで、普通だった。

変わったことなんて、何もない。


覚ちゃんは、自分の席について、机にノートを広げた。


(……変わらないふりをしてる)


(でも、私はもう……知ってしまった)


---


綾理さんの言葉は、夜になってから効いてきた。


「読めるってことは、“どう読むか”じゃなくて、“読んだあとに何をするか”なんだよ」


(“読むこと”が私の本能なら、“どう応えるか”は、私の人格なんだ)


覚ちゃんは、初めてそう思った。


---


読まないことは、できない。

目を開ければ光が入るように、人の心は“勝手に”流れ込んでくる。


でも、それを“どう受け取るか”は、自分に任されていた。


---


今日も、人間くんの心はやさしかった。

混乱と葛藤と、でもちゃんと自分を律しようとする“強さ”がある。


(“会いたい”と思ってる)

(でも、“また苦しませたくない”って思ってる)


(その両方が、私の中に甘く流れ込んでくる)


だけど——


(私は、今日、それを“読むだけ”にした)


---


彼に声をかけようと思えば、かけられた。

昨日までの自分なら、きっとそうした。


“会いたい”を読んで、“会いたいんだね”って答えるように。


でも今日、覚ちゃんはそれをしなかった。


彼が“ためらっている”なら、そのためらいを、彼のものとして尊重しようと思った。


それが、綾理さんが言っていた“対等”に近づく一歩だと思ったから。


---


だけど。


その沈黙が、少し、怖かった。


(もし、読まなかったら……私は、あなたとどうやってつながってたんだろう)


(私は、あなたの優しさに甘えてた)

(でも、その甘さがなければ、私は……ただの、読める化け物かもしれない)


---


放課後。


帰り支度をしながら、彼の背中を目で追った。


彼は振り向かなかった。

それもまた、彼の“優しさ”だとわかっていた。


でも、それでも——


少しだけ、胸が苦しかった。


---


(私は、まだ“読むこと”に、甘えている)


---


月曜の昼。

授業が終わって、教室にざわめきが戻ってきたとき、

人間くんはぼんやりと窓の外を見ていた。


今日は、覚ちゃんが話しかけてこなかった。


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(いや、別におかしくない。いつも話してるわけじゃないし)


(……でも、なんか……)


なにかが、違う気がした。


目は合った。軽く笑いかけてくれた。

でも、それだけだった。


---


昼休み。


同じグループで弁当を広げる。

覚ちゃんも一緒にいた。


いつも通りの空気。

でも、いつもより少し、「自分に向けられてる」感じが薄かった。


(きっと僕が、なんか重かったんだ)


(先週、いろいろありすぎたし……)


(きっと、そっとしておいてくれてるんだよね)


---


でもその「そっとしておく」が、彼には、自分への拒絶のように感じてしまった。


---


放課後。

机を片付けながら、ちらっと彼女を見た。


覚ちゃんは、友達と静かに話していた。

笑っていた。


それが、すごく綺麗に見えて——

すごく遠くに思えた。


---


(なんでだろう、話しかけようと思えばできたのに)


(でも、“彼女が僕を必要としてない気がした”)


(……それって、僕が“必要としてほしかった”ってことなんだよな)


---


彼は、自分が覚ちゃんの笑顔に期待していたことを思い出す。

彼女が声をかけてくれることを、ずっと待っていたことに、ようやく気づく。


そして、その自分に、また嫌悪感がわいてくる。


---


(ほんとうに僕は……自分勝手な希望ばかり持ってる)


(でも、もうちょっとだけ……話せたらよかったな)


---


夜、スマホを手に取って、「今日もおつかれさま」って打とうとして、

でも、やめた。


---


(距離を取ってるのは、きっと僕の方だ)


(明日は、話しかけよう)


(それで、もしまた笑ってくれたら……それだけで、もう少しがんばれる気がする)


---


彼はスマホを伏せて、目を閉じた。


明日のことを、

少しだけ、願うような気持ちで。

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