第一部 - 4話
掃除当番のあと、教室に誰もいない時間。
床に落ちたプリントを拾おうとして、
人間くんと覚ちゃんの手が、**ぴたり**と触れた。
一瞬のことだった。
手の甲と手の甲が、かすかにこすれただけ。
でも——
(あ、)
その感覚が、彼の背骨をすっと冷やした。
次の瞬間には、心臓が跳ねたみたいに脈打ち始める。
「……ごめん」
小さく、でもちゃんと聞こえる声で、覚ちゃんが言った。
それだけだった。
謝って、プリントを拾って、彼女は何事もなかったように自分の席へ戻った。
笑いも、照れも、怒りも、なかった。
(……なに?)
(え、怒ってない? 嫌だった?)
(それとも、何も思ってない?)
人間くんは、あわてて自分の手をズボンで拭いた。
指先の感触はまだ、熱を残していた。
でも、それよりも強く残ったのは——
”覚ちゃんが、何を思ったのかわからなかった”という、強烈な不安だった。
---
(彼女の心がわからない)
いつもは見ないふりをしていた。
“気になる”とか、“可愛い”とか、そんな感情は心の奥に押し込めていた。
でも今日、あの手が触れた瞬間だけは、
彼女の心のなかに自分がいたのか、いなかったのか——
どうしても、知りたくなってしまった。
だけど彼女の顔は、変わらなかった。
あの声も、あの動きも、全部、
感情がなさすぎて怖かった。
(……僕だけ、なにかを感じて、馬鹿みたいだ)
(覚ちゃんって……何考えてるんだろう)
(僕のこと、どう思ってるんだろう)
机に肘をついて、うつむいた。
そのまま、答えのないまま、チャイムが鳴った。
---
掃除のあと、教室にはふたりだけが残っていた。
窓の外から差す光が、机の上に静かに落ちていた。
プリントがひらひらと床に落ちて、
彼と、私が、同時にしゃがんで——
ふれた。
指先と指先が、ほんの一瞬。
紙の上で、重なった。
その瞬間——
彼の心が、押し寄せてきた。
> (あ、)
> (……手、触れた)
> (やば、どうしよう、どういう顔すればいいの)
> (恥ずかしい、でも、うれしい、でも、これってダメなやつだ……)
その全部が、まるで温かい湯気みたいに流れ込んできて、
覚ちゃんの胸を一気に満たした。
(……甘い)
(なんで、こんなに甘いの……)
たった数秒の出来事なのに、
彼の心はめまぐるしく揺れて、焦って、喜んで、罪悪感で蓋をしようとしていた。
それを、全部、読んでしまった。
そして、覚ちゃん自身の体にも、思わぬ反応があった。
心臓が、跳ねた。
耳が、熱くなった。
指先が、ふるえた。
(どうしよう……こんなの、顔に出せない)
(読んでるって知られたら、もっと傷つけてしまう)
(……私だけ、こんなに感じてるなんて、知られたくない)
だから、全部、表に出さなかった。
何もなかったふうに、プリントを拾って、席に戻った。
> 「……ごめん」
それだけ言った。
震えない声で、なるべく普通のトーンで。
でも、それすらも必死だった。
---
席に戻っても、覚ちゃんの心は落ち着かなかった。
隣から、彼の気配がふるえていた。
視線は向けてこないけど、心だけがこちらに伸びてきているのが、わかる。
> (僕、変なこと思ってた)
> (ごめん、また……最低だ)
> (覚ちゃん、なんとも思ってないみたいだった)
その言葉が、なぜか、痛かった。
(なんとも、ないなんて、思わないで)
(私、もうこんなに、読んでしまってるのに)
(もうこんなに……あなたの心が、好きなのに)
けれど覚ちゃんは、何も言えなかった。
あの日の放課後、彼の手の熱が、まだ手の甲に残っている気がして——
それだけを、そっと握りしめるようにして、
今日の授業に、身を預けていった。
---
月曜日の朝、
ホームルームの空気に、微かな緊張が走っていた。
担任が、配布されたプリントを手に立ち上がる。
「はい、今日から新しい取り組みが始まります。“種族間理解ペアワーク”ね」
教室内が、ざわ……と揺れる。
「異種族間の相互理解を深めるため、校内での体験活動だけじゃなく、放課後や週末にかけての“個人交流”も含めたプログラムになります」
一瞬、息をのむ気配。
「内容としては、共通の課題に取り組んだり、生活スタイルの違いを共有したり……まあ、最終的には小レポートを書いてもらう予定です」
その言葉の中に、
“あなたのプライベートに入りますね”という無言の圧が混じっているのを、
覚ちゃんは感じていた。
---
名簿順でペアが発表されていく。
不安げにざわつくクラスメイトたちの中で、
ある名前が並べられた瞬間——
「覚さんと……人間くん、ね」
時間が、止まったような気がした。
---
人間くんは、顔を上げていた。
その目には、**驚き**と、**困惑**と、
ほんの少しの、**とまどいを超えた期待**が混じっていた。
> (うそ……この人と……?)
> (あの、覚ちゃんと……?)
> (……でも、なんで、嬉しいって思っちゃうんだよ)
---
覚ちゃんの方は、口元を引き締めていた。
表情に出すわけにはいかない。
でも、心の中では嵐のような感情が渦巻いていた。
(プライベートって、どこまで……?)
(“読まないふり”を続けるなんて、できるの?)
(でも……知りたい。もっと、知りたい)
自分の中にある“知りたい”という欲が、
“読んでしまう”という罪にすり替わる前に——
この制度は、それを正当化してくれる。
(……怖い。けど、それ以上に、うれしい)
覚ちゃんの胸に、
そのふたつの感情が溶けきらずに、交差した。
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