第35話 いつもの朝
朝の静けさに包まれた厨房で、俺は粉に水を加え手のひらで生地を押しこむようにこねていた。
コツン、コツンと木の台に拳を打ちつける音が薄明るい室内に規則正しく響く。
まだ空は白んだばかりで、窓の外には淡い靄がかかっていた。
以前ならどこから手をつけていいか戸惑っていた準備も、今は体が自然と動く。
生地の状態を手で確かめながら水分量と気温を考えて調整し、発酵時間を頭の中で逆算していく。
——なんだかんだでパン屋としての「感覚」みたいなものが、少しずつ自分の中に育ってきたのかもしれない。
木の棚に並ぶ小麦粉の袋や昨日洗って乾かしておいた焼き型たちを目にするたびに、「いつもの朝だな」と思う。
その「いつも」があることが、今はたまらなくありがたかった。
パン生地の表面が滑らかになり手のひらにほのかに熱が伝わってきた頃、俺はようやく手を止めた。
深呼吸して、ふと窓の外を見やる。
靄の向こうにゆっくりと朝日が差し込みはじめていた。
今日もまたパンを焼ける。
そう思うだけで胸の奥が静かにあたたまっていった。
「おはよう、悠介。もう焼き始めてたんだ」
リナの声が扉の向こうからひょっこりと届いた。
パジャマ姿のまま、まだ眠そうな顔で厨房に入ってくる。
「おう、おはよう。今日は仕込みが少し多めだからな。昨日、パン買いそびれたって人もいたし」
「そうなんだよね。あたしの友達のマルヤさんも、“もうちょっと早く行けばよかった”って拗ねてたよ」
「あはは、それは悪いことをしたな。あとで謝っといてくれ」
そう言いながらも嬉しさが滲むのを隠せなかった。
誰かが待っていてくれる。それがどんなに心強いことか、最近やっとわかってきた気がする。
「今日も“にっこりパン”ある?」
「あるさ。昨日よりちょっとだけ焼き色にこだわってみようと思ってる」
「ふふ、それってつまり……“こだわりパン”だね」
「それじゃ名前変わってるぞ」
リナがくすくすと笑い、俺もつられて肩の力が抜けた。
祭りが終わっても、またこうして“普通の朝”が戻ってくる。
でもその何気ないやり取りが今の俺には何より大切だった。
生地の膨らみを確かめながら俺は今日もこの村でパンを焼く。
そう、ごく自然に。
「さて、と」
看板を立てるとまだ朝の空気が冷たい中、ぽつりぽつりと村の人たちが通りに現れ始めた。
ひとり、またひとりと声をかけてくれる。
「おはよう、悠介さん。昨日のお祭りのパン、すごく好評だったよ」
「うちの子、あれ食べて“パンの妖精に会えた”とか言ってたんだから。ふふ、ありがとうねぇ」
そんな言葉が湯気の立つパンの香りと一緒に胸に染み込んでくる。
ありがとうって言いたいのは俺の方なのに。
ふと視線を上げると、鍛冶屋のボルクさんが道具箱を肩に担いで歩いてくる。
「おう、今日も焼いてるか」
「ええ。ボルクさんのおかげでこの店が成り立ってますよ」
「はっ、礼なんていらんさ。パンの匂いが朝の活力だ。頼むぜ」
そう言うとボルクさんはいくつかのパンの入った袋を片手に掲げつつ去っていった。
相変わらず飾らない言葉だけど、それがどれだけ背中を押してくれることか。
ちなみに本当ならまだ開店前なんだが、まあボルクさんに関しては店づくりの恩があるので特別だ。
そして元の世界ならきっとそんな特別扱いをすれば他の人の反感を買ったり社会問題になったりするが、ここではそんなことにはならない。
なんと言うか、みんながどこか寛容なのだ。
「きゅぅ」
モカが看板の下であくびをして、くるりと丸くなる。
今日も変わらない一日が始まる。だけど誰かと交わすたったひと言が、それを少しずつ特別にしていくのだと俺は知っている。
パンの香ばしい匂いが朝の空気に溶けて広がっていく。
湯気を立てて焼きあがった“にっこりパン”をトレーに並べながら俺はふと手を止めた。
特別な日じゃない。
祭りの飾りもないし、賑やかな音楽も聞こえない。ただパンを焼き、誰かがそれを求めてやってくる日常。
けれど心のどこかで確かに感じる——これは、俺にとっての再出発なんだと。
あの日、リナに声をかけられてこの村に来て。
マルガレータさんに受け入れられて少しずつ暮らしに馴染んで。
パンを焼くことで誰かとつながって。
気づけば“ただの居候”だった俺は、“パン屋の悠介さん”と呼ばれるようになっていた。
何も劇的なことは起きていない。でも、それがいい。
こうして変わらず迎えられる朝こそが俺にとっては大きな奇跡だった。
リナが裏から顔をのぞかせて「もうすぐ開店だよー」と声をかけてくる。
俺は「わかった」と応えてトレーを両手に持ち直した。
ゆっくりと店の扉を開ける。
今日もパンを焼き、誰かの笑顔に出会う。
その当たり前が何よりもありがたくて、尊い。
風が少しだけ強くなった朝の空気を感じながら俺は手にした生成り色の布を見つめていた。
店の入口に吊るす、小さなのれん。
村の織物職人が祭りの後に仕立ててくれたもので、角には小さく“パンの家”という刺繍が入っている。
「これ、似合ってるといいんだけどな……」
誰にともなく呟いて、そっとのれんを吊るした。
ふわりと揺れる布が朝日を受けてやわらかく光る。
その瞬間、胸の奥にじんわりとしたものが広がった。
扉の向こうで、リナの声が再び響いた。
「ねぇ悠介。どうかした?」
「ああいや、なんでも。……よし、開店だ」
小さく息を吸い込んで、扉の取っ手を握る。
のれんの奥、そこに広がるのは変わらない村の朝。
そしてその中で確かに息づいている“今”の俺。
パンの香りとともに、今日もまた小さな物語が始まっていく。
第一部 完
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