『共鳴のソリチュード』

漣 

第1話 イレギュラーな共鳴

ネオ・トーキョー――風の吹かない都市。


濃いグレイの空の下、高層ビル群は秩序の仮面を貼り付けたまま沈黙していた。そこには怒号も歓声もなく、ただ整然と進行する〈静寂〉があった。人々は均一な速度で歩き、決められた感情の幅で笑い、曖昧な情動を排した世界で「幸せ」に暮らしていた。


この都市を統べるのは、ヒューマンシステム――人工知能による感情の管理機構。


喜びも悲しみも、一定の閾値を超えると“異常”と見なされ、自動的に脳波制御による抑制が施される。感情は社会のノイズであり、犯罪や混乱の原因であり、だから排除された。そうすることで人間は調和を得た、と信じられていた。


けれど、それは本当に「生きている」と言えるのだろうか?


その問いに答えようとする者がいた。如月響(きさらぎ・ひびき)。十九歳。エモーショナル・プロデューサー。


地上ではその名を知る者は少ない。だが、地下鉄の廃駅に足を運ぶ者の中には、彼の音楽を「聴いた」と答える者がいる。


今夜もまた、ひと気のないホームに、響の旋律が静かに響いていた。


錆びた鉄骨と壁に反響しながら、透明な旋律が空気を震わせる。


誰にも聴こえない――はずだった。ヒューマンシステムによって制御された社会では、音楽すら感情の扇動とされて久しい。けれど、ごく一部の者だけが、その音を「感じる」ことができた。


ロスト・エモーション。感情抑制処置をすり抜けた、“欠陥”と見なされた感情たち。社会の歪みの中で息づく、忘れられた心の残響。


響の旋律は、それに触れる。


彼は知っている。誰もが本当は、何かを「感じたかった」のだと。


「今日も……誰かに、届くといいな」


誰ともなくつぶやいた瞬間、足音が降ってきた。


金属階段を静かに踏みしめながら現れたのは、一人の青年だった。白いコート。整った容貌。冷たい眼差し。


「如月響。君の活動は、イレギュラーな共鳴と認定された」


その言葉は、まるで機械が発したような無機質さだった。


「……ハーモナイザー、か」


響の目がわずかに細まる。


天野零士(あまの・れいじ)。ヒューマンシステムの中枢から派遣される感情監視官。その存在は、文字通り「無感情の象徴」とされていた。


「君の音楽は、感情抑制に対する重大な干渉行為と判断された。システムの指示に従い、矯正を受けてもらう」


零士の声には一切の揺らぎがない。だが、響は微笑を浮かべた。


「お前さ、ほんとにそれで、何も感じないわけ?」


零士のまなざしが一瞬、わずかに揺れた。


それを見逃さなかった響の目が、楽しげに細められる。


「感情を持たない者にしては、妙に“人間くさい”反応だったよな」


響の声は冗談めいていたが、その奥には確かな探りがあった。


零士は応えず、無言のまま階段を降りきると、わずかに距離を取って立った。まるで、共鳴の波を浴びないための安全距離でもあるかのように。


「君の音楽は、特定個体の感情活動を異常活性化させている。すでに五例、精神的異常が報告された」


「へえ。そりゃ、抑圧された感情が目を覚ましただけじゃないの?」


響は演奏を止めず、静かに音を重ね続けていた。だがその指は、どこか挑戦的だった。まるで“この音で、お前の心をも暴いてやる”とでも言いたげに。


零士はそれを一歩も動かずに見ていた。だが、鼓膜の奥に、微かに熱を帯びた何かが忍び込んできていた。


(これは、ただの音楽ではない)


そう思った瞬間、自分の脳内で“感情抑制プロトコル”が作動しているのを感じた。ヒューマンシステムが、自動的に感情の芽を摘もうとしていた。


それでも、わずかに遅れた。


(否定できない……確かに、これは――)


零士の脳裏に、幼少期の記憶がフラッシュバックする。母が鼻歌を歌っていた、短い時間。父の怒声が響く直前に、かすかに残った温もり。


それを思い出させるものが、今、響の音にあった。



「……君が行っているのは、秩序への反逆だ。システムに従わない限り、排除されることになる」


「それが正義か? “感じること”が、そんなに危険か?」


音が、零士の足元に広がるように響く。階段の鉄の床、コンクリートの壁、湿気の残る空気すら震わせながら、旋律は“問い”となって零士の中に沈んでいった。


「それでも君は、なぜ聴いている?」


その問いに、零士は答えられなかった。


沈黙。それは敗北でも、拒絶でもない。

彼の中に芽生えた“わからなさ”――それが、何よりも大きな揺らぎだった。


そして次の瞬間、零士は通信端末に指をかけかけ、止めた。


「記録はしない。――今回は、警告に留める」


「へえ、そりゃ光栄だな」


響がふっと笑う。その笑みには、どこか予感が混じっていた。


「でも、お前はまた来るよ。俺の音が、お前の中の“何か”に触れたんだ」


零士は何も答えず、踵を返した。音も立てず、静かに階段を上っていく。


残された響は、最後の音を弾き終え、静かに呟いた。


「――やっぱり、まだ感じられるんじゃないか。零士」


それは、確信という名の祈りだった。


かつて、零士には“感情の記憶”があった。


それは遠い過去、まだ彼が幼かった頃。

眠れぬ夜、母がそっと肩を抱いてくれた、あのぬくもり。


ほんのわずかに歌うような声で、耳元で語られた「物語」。

それは誰かの記録ではなく、母自身が紡いだものだった。


だが、感情は病理とされる時代だった。

彼女は「情緒不安定」と認定され、治療施設に送られた。

彼女の声も、温もりも、歌も、そして名も――すべてが抹消された。


それからの零士は、空白を抱えたまま育った。


「感情は害悪です。感情は破滅の引き金です」


そう繰り返される訓練の中で、彼はそれに従った。


何も感じず、何も疑わず、ただ「正しい存在」であるために。


ハーモナイザー。それは「感情を捨てた者に与えられる資格」だった。


だが、その夜――


如月響の旋律に触れた瞬間、彼の中の空白が疼いた。


それは喪失の痛みではなかった。

記憶の奥底から立ち上がった、懐かしさと寂しさ、そして名もなき憧れだった。


忘れていたはずのものが、音と共に呼び覚まされた。


あの夜から、眠れない日が続いている。

ノイズのように、あの旋律が脳裏を流れ続ける。


彼は、それを「異常」として処理できなかった。


だから、足が向いたのだ。再び、彼の音へと――。


ネオ・トーキョーの中心――〈セントラル・コア〉。


ヒューマンシステムの管理中枢では、天野零士の動向に微かな異変が記録されていた。


「……観測値異常。感情抑制反応、応答遅延0.03秒」


「影響因子は?」


「不明。現場での共鳴因子との接触が疑われます」


監視担当官たちは淡々とデータを読み上げる。彼らの脳波はすでに完全制御され、感情という概念を持たない。ただ、「エラー」を報告することだけが職務だった。


その中心に座す、ヒューマンシステムの代理AIが、冷たい声で言った。


「零士――天野。必要であればリセット対象とする。感情因子は拡散を許容しない」


その判定に誰も異を唱えなかった。

だが、その場にいなかった彼自身だけが、今まさに「その閾値」に立たされていることを知っていた。


その翌日。

零士は自らの意思で再び地下へ降りた。


階段を下りる足音が、以前よりも少しだけ音を立てた。

それはほんの微細な差異にすぎなかったが、響はすぐに気づいた。


「来たな、零士」


呼びかけに、零士は頷く。


「昨日、システムから警告が来た。“君と接触したことで、影響を受けた”と」


「で、どうする?」


響の問いは、真っ直ぐだった。


「――それでも、知りたい。あの夜、あの音が、なぜ自分の中の何かを揺らしたのか。

それが、偽物じゃないと証明したい」


響は目を細め、鍵盤に手を置いた。


「じゃあ、答えに来い。俺の音に」


そして、新たな旋律が始まった。


それは静かで、だが確かに深い波紋を生む音だった。

零士は目を閉じ、その響きにただ身を任せた。


ヒューマンシステムの網の目の中で、二人だけの「真実」が密やかに生まれつつあった。


共鳴は始まっている。誰にも気づかれず、静かに、確かに。

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