第6話 任意売却、そして自己破産

■ 会社帰りの夜


仕事でも私生活でも、何一つうまくいかなくなっていたある夜。

気晴らしのつもりで、同期のAとBと3人で飲みに行った。


Aの実家は不動産業を営んでいる。

Bは郊外に中古マンションを買って喜んでおり、内心俺は少し見下していた男だ。


A「ここだけの話だけどさ、うちの会社、早期退職者を募るみたいだぜ?」


B「えっ!? リストラってこと?」


俺「え……?」


A「まぁ“希望退職”ってやつだよ。表向きは円満退社。俺らより上の世代を減らしたいんだろうな」


B「やめてくれよ…心臓に悪いって」


A「それより、お前さ――最近、元気ないよな。なんかあった?」


俺「……いや、別に……」


A「嘘つけよ。お前の顔、全部に書いてあるわ」


B「俺ら、同期だろ?話しくらい聞くって」


その言葉に、彼等の優しさに、胸が詰まり泣いた。


俺は、溜め込んでいたものを全て吐き出した。

病気、妻のうつ病、住宅ローン、そして、もはや限界を迎えつつある家計。


A「…今日の昼、銀行に電話したって言ったよな。ローンの返済額を減らせないかって?」


俺「うん。でも、すぐに“条件変更は難しい”って言われた」


A「正直、それはやめといた方がいい。たとえ一時的に楽になっても、“延命”にしかならない。問題を先送りしてるだけなんだよ」


B「……でも、どうすれば?」


A「俺の親父に会ってみろよ。不動産屋で色々見てる。任意売却、ちゃんと進めれば選択肢はまだある」


Aの声は、冷静だった。でも、それが逆に、俺を動かした。



■ Aの父との面談


週末、Aの父を訪ねて書類一式を渡した。


「じゃあ、見ていこうか」


淡々と、しかしどこか優しい口調で彼は言った。


住宅ローンの明細、カードの利用停止通知、督促状……恥ずかしいほどに、散らばった現実。


「債務総額は……1億600万円か」

「住宅ローンが9,800万円。残りはカード、消費者金融、カーローンで約800万」

「ご家族は?」


「妻は別居中で、子どもは妻の実家にいます」


「他に財産は?」


「車と家具くらいです」


彼はうなずくと、即断した。


「じゃあ、任意売却で進めよう。不動産の媒介契約はこちらで準備する。他の債務は債務整理に強い弁護士を紹介するよ。費用は、銀行と交渉して負担してもらえるよう話してみる」


すべてが事務的だった。

でも、その合理性が――ありがたかった。



■ 任意売却の開始


数ヶ月後、銀行から“精算額”の通知が届いた。

売却価格は9,000万円でのスタート。


この数字は、他の業者が提示した査定額よりも明らかに高かった。


「うちは、債務者の味方だよ」


Aの父はそう言って笑った。

もちろん、売れる保証などなかった。

だが――彼は俺のために本気で動いてくれていた。


「なるべく債務を残さないように、時間の許す限り高く売り出していく。

買主候補には“任意売却であること”も包み隠さず伝えるよ。

それでも、買いたいと言ってくれる人が、世の中にはいる」


プロの目線で、そして一人の父親として。

Aの父の対応は、どこまでも真摯だった。


そして、わずか3週間後――


「1組、条件を飲んでくれる方が現れた。価格も提示通りだ。すぐに契約しよう」


彼は淡々と告げたが、裏では様々な調整をしてくれていた。

債権者との調整、買主側の住宅ローン審査、司法書士との日程確認――

それらを、一気にまとめてくれた。


契約は無事に成立し、手続きが始まった。


引越し費用、仲介手数料、司法書士報酬、そして債務整理にかかる弁護士費用まで――

すべてが、売却代金からきれいに差し引かれるように組まれていた。


もはや、俺の意思など関係ない。

この部屋は、俺の“居場所”ではなく、銀行の“回収対象”になっていた。


けれど、そこにほんの少し、人の温かさが残っていた。



◆任意売却は、関わる利害関係者が多くなるほどに、その過程は複雑化し、そして“不透明”になっていく。◆


中には、銀行への査定価格を意図的に低く提示し、自社で安価に買い取って利益を得ようとする不動産業者も存在する。

また、債務者がすでに自己破産を視野に入れていることを見越して、「どうせ最後は破産するんだから」と対応を蔑ろにする者も少なくない。


実際、任意売却の対象となった家には、生活の痕跡と疲弊が色濃く残っていることが多い。

散らかった室内、手入れされていない外構――

そこには“暮らし”ではなく、“崩れた日常”が刻まれている。


任意売却とは、ただの取引ではない。

人生の“撤退戦”だ。

そして、その撤退の仕方ひとつで、残る傷の深さが決まる。



■ タワマンとの別れ


引越し当日。

梱包された段ボールが、リビングに積まれていた。

この家で使っていた家具の多くは処分された。残ったのは、最低限の荷物と、思い出だけだった。


父と母が来てくれた。

何も聞かず、黙々と荷物を梱包する父。

掃除機をかけながら、何度も目を拭う母。

“親に手伝ってもらっての引越し”――それは情けない、けれど、ありがたい時間だった。


リビングの窓から最後に夜景を見た。

何も変わらない煌めきが、どこか遠く感じられた。


「若いんだから、大丈夫だよ」

父はぽつりと、そう言った。

決して励まそうとしているわけではない。

ただ、そこには信頼があった。俺という人間への。


「ありがとう」

短く、そう言って頭を下げた。

その瞬間、ようやく肩の力が抜けた気がした。


エレベーターのボタンを押す。

“最上階に近い”そのボタンではなく、今日は“1階”を選ぶ。

高層から降りるその数秒が、異様に長く感じられた。


まるで――

長い夢から、ようやく目を覚ましたような感覚だった。



■ 債権者集会


裁判所からの通知が届き、「債権者集会」に呼ばれた。

形式上のものだと聞かされていたが、緊張はした。

スーツ姿の男たちが淡々と席に座り、債権額を確認していく。


「特に異議は……ございません」


誰も俺を責めなかった。

むしろ、そこに“人間”というより“数字”しかないことに、安心すら覚えた。



■ 解放と、虚無


破産の決定が下り、債務が全て“ゼロ”になった。

正確には“帳簿上のゼロ”。

だが、精神的な重圧からは確かに解放された。


代わりに残ったのは、空虚さだった。


通帳も、家も、車も、家族も――

何もかも失って、初めて本当の“自由”があった。


だが、その自由の上に立つには、

もう一度、自分を一から組み立て直す必要がある。



◆ 壊れたのは、誰かのせいじゃない ◆


これは、どこにでもある話だ。

特別な事件があったわけじゃない。

詐欺に遭ったわけでも、ギャンブルで身を滅ぼしたわけでもない。


彼は、ほんの少し“背伸び”をしただけだった。


家族のために、良い暮らしをしたいと思った。

周りと比べ、見劣りしないようにと努力した。

未来を信じ、夢を買った――それが“持ち家”であり、“タワーマンション”だった。


けれど、現実は静かに彼を追い詰めた。


物価上昇、減ったボーナス、じわじわと上がる金利。

何もかもが“少しずつ”だった。

だが、家計のバランスは、わずかな傾きで簡単に崩れる。


“想定外”は、いつも複数でやってくる。


がんの発覚。

妻の鬱病。

そして――収入が止まった瞬間に露わになる、支払いの山。


制度も、保険も、金融商品も、正しく使えば味方になってくれる。

だが、それらに“無関心”でいることの代償は、あまりに大きい。


人生を変えるのは、一発逆転の大勝負ではない。

小さな判断の積み重ねだ。

そしてそれが、知らぬ間に「選択肢のない場所」へと人を運んでしまう。


彼は、特別な失敗をしたわけではない。

ただ、知識が足りず、そして誰も教えてくれなかった。


情報を持つ者が生き延び、

情報を持たぬ者は――食い物にされる。


家も、保険も、ローンも、

「勢い」や「なんとなく」で決めていい時代ではなくなった。


正しく学び、疑い、理解し、慎重に選ぶこと。

それは「豊かになるため」ではなく、

「壊れないため」に必要な防衛知識なのだ。

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