第15話「孤独な記憶」




十五日目の夜、一ノ瀬澪は田村先生から受け取った古い鍵を見つめていた。


地下への扉を開く鍵。システムの中枢に近づくための鍵。


澪は恐怖を感じていた。明日、一人でその場所に向かわなければならない。しかし、それ以上に孤独感が澪を苦しめていた。


この戦いを理解してくれる人は誰もいない。


成瀬陸は記憶を改ざんされ、今では澪の異常な行動を心配している。宮内ひよりも同様だ。クラスメイトたちは皆、システムの影響下にある。


澪だけが真実を知り、澪だけがそれを覚えている。


これほどまでに孤独な記憶を背負うことの重さを、澪は実感していた。


翌朝、澪は学校に向かった。いつものように登校しているが、今日は特別な日だ。放課後に地下へ向かう予定だった。


教室に入ると、田中智也が澪を見つめていた。その目には、何かを訴えかけるような光があった。


澪は田中智也に近づいた。


「おはよう」


「おはよう」田中智也は答えた。しかし、その表情には困惑があった。


「昨夜、また変な夢を見たんだ」田中智也は小さく言った。


「どんな夢?」


「君が危険な場所に向かう夢」田中智也は澪を見つめた。「とても心配になった」


澪は震えた。田中智也の中にいる葛城紗夜が、澪の計画を感じ取っているのかもしれない。


「大丈夫よ」澪は微笑んだ。「心配しないで」


しかし、田中智也の表情は晴れなかった。


「何か危険なことをしようとしてるでしょう?」


澪は答えに困った。嘘をつきたくないが、真実を話すこともできない。


「私には、やらなければならないことがあるの」


田中智也は澪の手を握った。その手は震えていた。


「一人で行かないで」


澪は涙が出そうになった。田中智也の中の葛城紗夜が、澪を心配している。


「一人じゃないよ」澪は答えた。「あなたがいてくれる。心の中で」


田中智也は困惑した表情を見せた。自分でも理解できない感情に戸惑っているようだった。


授業中、澪は周りのクラスメイトたちを見回していた。


皆、普通に授業を受けている。昨日のことも、今日のことも、普通に記憶している。


しかし、葛城紗夜のことは誰も覚えていない。田中智也の正体についても、疑問を抱く者はいない。


澪だけが、異常な現実の中で正気を保っている。


昼休み、成瀬陸が澪に声をかけてきた。


「澪、最近様子が変だよ。何か悩んでるの?」


澪は陸を見つめた。親友の陸。しかし、今の陸は記憶を改ざんされた陸だった。


「大丈夫」澪は答えた。


「でも、一人で抱え込んでるように見える」陸は心配そうに言った。「何でも話してよ」


澪は胸が痛くなった。陸に話したい。すべてを話して、一緒に戦ってもらいたい。


しかし、それは不可能だった。陸にはシステムの異常が見えない。澪の話を聞いても、理解できないだろう。


「ありがとう、陸」澪は微笑んだ。「でも、これは私一人で解決しなければならないことなの」


陸は困った表情を見せた。


「一人で解決って、そんな重い悩みなの?」


澪は頷いた。「とても重い」


「なら尚更、一人じゃだめだよ」陸は強く言った。「俺たちは友達でしょ?」


澪は涙を流していた。陸の優しさが、澪の孤独をより際立たせる。


「ごめん、陸。でも、これだけは一人でやらなければならないの」


陸は澪を見つめていた。その目には、深い心配があった。


「わからないけど」陸は静かに言った。「もし何かあったら、絶対に声をかけて」


澪は頷いた。「約束する」


しかし、澪は知っていた。この約束を守ることはできないだろう。


放課後、澪は地下への入り口を探した。


田村先生から聞いた話では、学校の地下にシステムの中枢があるという。しかし、どこから地下に入るのかは教えてもらっていなかった。


澪は校舎内を歩き回った。普段は入らない場所、生徒が立ち入らない区域を探す。


やがて、古い階段を見つけた。職員室の奥にあり、普段は使われていないような階段。


澪は周りを確認してから、そっと階段を下りた。


地下は薄暗く、ひんやりとした空気が漂っていた。廊下の奥に、重厚な扉があった。


澪は田村先生からもらった鍵を取り出した。手が震えている。


鍵を扉に差し込むと、重い音を立てて扉が開いた。


中は大きな部屋だった。壁一面に古いファイルキャビネットが並んでいる。中央には大きな机があり、その上には無数の出席簿が積まれていた。


澪は部屋に足を踏み入れた。


ここがシステムの中枢なのだろうか。記録を管理し、記憶を操作する場所。


澪はファイルキャビネットに近づいた。引き出しを開けると、生徒の名前が書かれたカードがぎっしりと詰まっている。


澪は「葛城紗夜」のカードを探した。しかし、見つからない。


代わりに「田中智也」のカードがあった。しかし、そのカードには奇妙な記載があった。


「記録変更:葛城紗夜→田中智也」

「実行日:○月○日」

「状況:完了」


澪は震えた。葛城紗夜から田中智也への変更が、ここで管理されていた。


澪は他のカードも確認してみた。


すると、驚くべきことがわかった。


過去にも同様の記録変更が行われていた。見知らぬ名前から、別の見知らぬ名前への変更。


「山田花子→佐藤太郎」

「田村美咲→鈴木一郎」

「中島麻衣→高橋浩司」


無数の変更記録があった。すべて女子から男子への変更。


澪は理解した。葛城紗夜だけが特別な存在ではなかった。過去にも、同じような少女たちがいた。そして皆、男子生徒に変更されていた。


澪は机の上の出席簿を確認した。


現在の2年B組の出席簿。そこには確かに「田中智也」の名前があった。しかし、その下に薄く「葛城紗夜」の文字が見える。まるで消去されずに残っているかのように。


澪は他の出席簿も確認した。過去数年分の記録。


どの年度にも、同様の痕跡があった。男子生徒の名前の下に、薄く女子生徒の名前が残っている。


すべての少女たちが、完全には消去されていなかった。


その時、部屋の奥から声が聞こえた。


「誰ですか?」


澪は振り返った。霧島教諭が立っていた。


「一ノ瀬さん、なぜここに?」


澪は動けなかった。発見されてしまった。


「ここは生徒が入ってはいけない場所です」霧島教諭は近づいてきた。


「すみません」澪は謝った。


「何を見ていたんですか?」霧島教諭は机の上の出席簿を見た。


澪は正直に答えることにした。


「葛城紗夜を探していました」


霧島教諭の表情が変わった。


「葛城紗夜?そんな生徒はいません」


「いました」澪は強く言った。「田中智也に変更される前に」


霧島教諭は長い間澪を見つめていた。そして、深いため息をついた。


「あなたは知りすぎました」


澪は恐怖を感じた。「知りすぎた?」


「このシステムを知ってはいけない人でした」霧島教諭は静かに言った。


「でも、私は観察者のはずです」澪は必死に言った。「田村先生が」


「田村先生?」霧島教諭は首を振った。「彼女は何も知りません」


澪は愕然とした。田村先生は嘘をついていたのか。


「では、なぜ私は記憶を保持できるんですか?」


霧島教諭は澪を見つめていた。その目には、複雑な感情があった。


「偶然です」教諭は答えた。「稀に起こる、システムの誤作動」


澪は震えた。自分は特別な存在ではなかった。単なる誤作動だった。


「これからどうなるんですか?」澪は尋ねた。


「修正されます」霧島教諭は冷たく答えた。「あなたの記憶も、正常に戻されます」


澪は立ち上がった。「嫌です」


「拒否はできません」


「でも、葛城紗夜はどうなるんですか?」澪は叫んだ。「田中智也の中にいる彼女は」


霧島教諭は困った表情を見せた。


「彼女は役割を果たしました。それで十分です」


「役割?」


「皆の辛い記憶を引き受ける役割」霧島教諭は説明した。「それが彼女たちの使命でした」


澪は理解した。葛城紗夜たちは、皆の痛みを背負うために選ばれていたのだ。


「そんなの間違ってます」澪は涙を流した。


「間違っているでしょうか?」霧島教諭は反問した。「このシステムのおかげで、多くの生徒が救われています」


澪は首を振った。「一人を犠牲にして」


「一人を救うために、多くを犠牲にするより良いでしょう」


澪は霧島教諭を見つめた。この人は本気でそう思っているのだ。


「私は忘れません」澪は宣言した。「どんなことがあっても、葛城紗夜のことは忘れません」


霧島教諭は悲しそうな表情を見せた。


「忘れることも、時には必要です」


「私にとっては必要ありません」


澪は机の上の出席簿を取った。葛城紗夜の名前が薄く残っている出席簿を。


「これを持って帰ります」


「それはできません」霧島教諭は手を伸ばした。


澪は出席簿を胸に抱いた。


「私の記憶だけでも、彼女を生かし続けます」


霧島教諭は澪を見つめていた。その目には、理解しがたいものを見るような困惑があった。


「なぜそこまで?」


「愛しているからです」澪は答えた。「葛城紗夜を愛しているからです」


霧島教諭は驚いた表情を見せた。


「愛?」


「はい。彼女への愛が、私に記憶を保持させているんです」


霧島教諭は長い間沈黙していた。そして、静かに言った。


「愛は、システムの想定外でした」


澪は希望を見出した。愛の力が、システムの盲点なのだ。


「だから私は記憶を失わないんですね」


霧島教諭は頷いた。「そうかもしれません」


澪は出席簿を持って、部屋を出ようとした。


「待ってください」霧島教諭が呼び止めた。


澪は振り返った。


「その出席簿を持って行っても、状況は変わりません」


「わかっています」澪は答えた。「でも、これが葛城紗夜の存在証明です」


霧島教諭は澪を見送った。その表情には、複雑な感情があった。


澪は地下から出て、夕暮れの校舎を歩いた。


手には葛城紗夜の名前が記された出席簿。これが彼女の存在を証明する最後の証拠。


澪は孤独だった。しかし、もう絶望していなかった。


愛の力がある限り、葛城紗夜を忘れることはない。


そして、それが澪の最大の武器だった。


その夜、澪は出席簿を見つめていた。薄く残る「葛城紗夜」の文字を。


「忘れない」澪は誓った。「絶対に忘れない」


窓の外では星が輝いている。その星の一つが、葛城紗夜の魂のような気がした。


澪は星に向かって語りかけた。


「私が覚えている限り、あなたは生き続ける」


風が窓を揺らし、どこかから微かな声が聞こえたような気がした。


「ありがとう」


澪は微笑んだ。


孤独な記憶を背負うことは辛い。しかし、それが愛する人を生かし続ける方法なら、澪は喜んでその重荷を背負い続ける。


それが、澪の愛の証明だった。

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