第7話「図書室の足跡」


七日目の昼休み、一ノ瀬澪は図書室で静かに本を読んでいた。


昨日保健室で発見したカルテのことが頭から離れなかった。葛城紗夜の詳細な記録、人間関係の悩み、そして謎めいた特記事項。すべてが彼女の存在を裏付けていた。


手に取ったのは「記憶の迷宮」という小説だった。記憶を失った主人公が、自分の過去を探す物語。今の澪の状況と重なる部分があり、何かヒントが得られるかもしれないと思った。


図書室は午後の陽光に包まれていた。窓から差し込む光が、本棚の間に長い影を作っている。他に数人の生徒がいたが、皆静かに読書に集中していた。


澪は窓際の席に座り、本を開いた。しかし、なかなか集中できなかった。頭の中では葛城紗夜のことばかり考えている。


彼女はここにも来たことがあるのだろうか。この図書室にも、彼女の足跡が残っているのだろうか。


澪は本から目を上げ、図書室内を見回した。書架の間を歩く生徒たち、静かに読書する生徒たち。その中に、かつて葛城紗夜の姿もあったのかもしれない。


澪は再び本に目を戻した。主人公が手がかりを求めて古い手紙を調べる場面だった。澪も何か手がかりはないかと、本の中を注意深く見ていった。


その時、ページとページの間に何かが挟まっているのに気づいた。


小さな紙片だった。しおり代わりに使われていたもののようだが、市販のしおりではない。手作りのメモのようだった。


澪はそっと紙片を取り出した。


そこには、鉛筆で書かれた文字があった。


「私はここにいた。忘れないで」


澪の心臓が跳ね上がった。この文字、どこかで見たことがある。


澪は机の中から手帳を取り出した。保健室で見たカルテの筆跡を思い出しながら、紙片の文字と比較してみる。


筆跡が似ていた。いや、同じかもしれない。


紙片を裏返してみると、別の文字も書かれていた。


「2023年5月10日」


日付が記されている。一年近く前の日付だった。


澪は震えていた。これは葛城紗夜が残したメッセージかもしれない。この図書室に確実にいたことを証明する、小さな証拠。


しかし、なぜこのメモが今まで見つからなかったのだろう。一年近くもの間、この本に挟まっていたということなのか。


澪は本の貸出記録を確認してみることにした。カウンターに向かい、司書の先生に声をかけた。


「すみません、この本の貸出記録を見せていただけますか?」


司書の先生は眼鏡を押し上げながら、澪を見た。


「貸出記録ですか?何か特別な理由でも?」


「調べ物をしていて」澪は曖昧に答えた。「この本を借りた人について知りたくて」


司書の先生は少し迷ったが、澪の真剣な表情を見て頷いた。


「分かりました。少しお待ちください」


先生はコンピュータを操作して、「記憶の迷宮」の貸出記録を画面に表示した。


「この本は意外と人気がないんですよ。最近はほとんど借りられていません」


澪は画面を見せてもらった。確かに、最近の貸出記録はほとんどない。


「去年の春頃はどうでしたか?」


「そうですね」司書の先生は記録を遡った。「ああ、ここに一件ありますね。2023年5月8日に貸出、5月15日に返却」


澪は息を呑んだ。メモに書かれた日付とほぼ一致している。


「借りた人の名前は分かりますか?」


司書の先生は画面を見つめた。しかし困った表情を見せる。


「おかしいですね。借りた人の名前の欄が表示されません」


「表示されない?」


「はい。データが破損しているのかもしれません。貸出日と返却日は記録されているのに、利用者名だけが読み取れません」


澪は背筋が寒くなった。また記録から名前が消されている。しかし、貸出と返却の日付は残っている。


「他にも同じようなことはありますか?」


司書の先生はいくつかの記録を確認した。


「時々ありますね。利用者名だけが読み取れない記録が。システムの不具合だと思っていましたが」


澪は確信した。これは葛城紗夜が借りた本だ。彼女がメモを残した本。


「ありがとうございました」


澪は席に戻り、改めてメモを見つめた。「私はここにいた。忘れないで」という文字が、澪の心に深く響いた。


葛城紗夜は必死に自分の存在を証明しようとしていた。記録から名前は消されても、こうして小さなメモを残すことで、自分がここにいたことを伝えようとしていた。


澪は本のページをめくってみた。他にもメモが挟まっているかもしれない。


すると、別のページにも小さな紙片を見つけた。


「誰か私を覚えていてください」


やはり同じ筆跡だった。彼女の切実な願いが、文字に込められている。


さらにページをめくると、また別のメモがあった。


「私は孤独です。誰とも話すことができません」


澪の目に涙が浮かんだ。葛城紗夜はどれほど孤独だったのだろう。誰にも覚えてもらえず、誰とも話すことができない状況で、どれほど苦しんでいたのだろう。


最後のページには、長めのメモが挟まっていた。


「もしこのメモを見つけた人がいたら、お願いします。私のことを覚えていてください。私は葛城紗夜といいます。この学校の2年B組にいました。でも誰も私を見ることができません。私はいったい何なのでしょうか。生きているのでしょうか、それとも死んでいるのでしょうか。分からないことばかりです。でも、このメモを読んでくれた人だけは、私のことを覚えていてください。お願いします」


澪は声を出して泣きそうになった。図書室にいることを思い出し、必死に涙をこらえる。


葛城紗夜の切実な願いが、澪の胸に突き刺さった。彼女は自分の状況を理解していた。誰からも見えない、誰からも覚えてもらえない存在になっていることを。


そして、それでも必死に自分の存在を証明しようとしていた。


澪はメモをすべて集めて、大切にしまった。これらは葛城紗夜の存在を証明する貴重な証拠だった。


その時、図書室の奥から小さな音が聞こえた。本が落ちる音のようだった。


澪は振り返った。書架の奥で、一冊の本が床に落ちている。しかし、そこには誰もいない。


澪は席を立ち、音のした方向に向かった。落ちていたのは詩集だった。表紙に「孤独の歌」というタイトルが書かれている。


澪はその本を拾い上げた。開いてみると、やはり小さなメモが挟まっていた。


しかし、このメモは他とは違っていた。文字が新しく、つい最近書かれたもののようだった。


「メモを見つけてくれてありがとう。私はまだここにいます。図書室の奥の、誰も来ない場所に。いつも一人で本を読んでいます。本の中の世界だけが、私を受け入れてくれるから」


澪は涙を流した。葛城紗夜は今もここにいる。図書室のどこかに。


澪は書架の奥を探してみた。人里離れた、古い本ばかりが並ぶ一角。そこで、澪は小さな異変に気づいた。


一つの書架の前だけ、床の埃の積もり方が違っていた。まるで誰かが頻繁にそこに立っているかのように、足跡のような痕跡がある。


澪はその場所に立ってみた。そこから図書室がどう見えるのか、体験してみたかった。


その位置に立つと、図書室全体が見渡せた。しかし、他の生徒たちからは死角になる位置だった。まさに隠れ家のような場所。


澪は目を閉じた。葛城紗夜の気持ちを想像してみる。


誰からも見えない、誰からも覚えてもらえない孤独。それでも必死に自分の存在を証明しようとする気持ち。


澪は小さくつぶやいた。


「紗夜ちゃん、私はあなたを覚えています」


その時、澪の頬に何かが触れた。風のような、とても優しい感触。


澪は目を開けた。目の前に、薄っすらと人影が見えたような気がした。制服を着た少女の姿。


「紗夜ちゃん?」


澪が声をかけると、人影はゆっくりと頷いたような気がした。そして、口を動かした。声は聞こえないが、唇の動きで分かった。


「ありがとう」


そう言っているのだ。


澪は手を伸ばした。葛城紗夜に触れてみたかった。しかし、手は空を切った。人影は薄れて、やがて消えてしまった。


でも、澪の心には確かな実感があった。葛城紗夜は確実にここにいる。この図書室に、この学校に。


澪は書架を調べてみた。葛城紗夜が読んでいたかもしれない本を探したかった。


古い哲学書や文学書の中に、いくつかのメモを見つけた。すべて葛城紗夜の筆跡で、孤独や存在について考察した内容が書かれていた。


「存在するとはどういうことでしょうか」

「誰からも認識されない存在に、意味はあるのでしょうか」

「私は本当にここにいるのでしょうか」


葛城紗夜は深く考えていた。自分の存在について、哲学的な思索を続けていた。


澪は一つずつメモを読んでいった。そこには、消えゆく存在の苦悩が綴られていた。


放課後になると、澪は図書係の仕事で再び図書室に来た。今度は一人で、ゆっくりと葛城紗夜の足跡を探したかった。


澪は書架の間を歩きながら、本の中に挟まれたメモを探した。これまでに見つけたメモは氷山の一角で、もっと多くのメッセージが隠されているかもしれない。


案の定、様々な本の中からメモを発見した。小説、詩集、哲学書、心理学の本。幅広いジャンルの本に、葛城紗夜のメッセージが残されていた。


「私の声が聞こえますか」

「私はここにいます」

「忘れないでください」

「一人ぼっちです」

「助けてください」


どのメモも、孤独と絶望に満ちていた。しかし同時に、希望も込められていた。誰かに見つけてもらいたいという、切実な願い。


澪は一つずつメモを読みながら、葛城紗夜の心情を理解しようとした。


彼女はここで、どれほどの時間を過ごしたのだろう。誰にも見えない存在として、一人で本を読み続けた日々。どれほど孤独で、どれほど辛かったのだろう。


図書室を出る前に、澪は書架の奥の隠れ家をもう一度訪れた。


そこに立って、静かに語りかけた。


「紗夜ちゃん、私はあなたのメッセージをすべて読みました。あなたがここにいたこと、あなたが感じていた孤独、すべて受け取りました」


風が図書室の窓を揺らし、本のページがかすかに音を立てた。


「私が覚えています。あなたの存在を、あなたの想いを、すべて覚えています」


その時、澪の足元に一枚の紙が落ちてきた。見上げると、本棚の隙間から舞い落ちてきたようだった。


紙を拾い上げると、そこには新しいメッセージが書かれていた。


「澪さん、ありがとう。あなたが私のメッセージを読んでくれて、本当に嬉しいです。長い間、誰にも気づいてもらえませんでした。でも、あなたがいてくれる。それだけで、私は救われています」


澪は涙を流した。葛城紗夜は澪の存在を知っている。そして、澪の行動を見守っている。


「これからも、時々この場所に来てください。私はいつもここにいます。一人ではないと感じられるから」


澪は頷いた。約束する。


図書室を出る時、澪は振り返った。書架の奥に、人影が見えたような気がした。


手を振る、小さな影。


澪も手を振り返した。そして、決意を新たに図書室を後にした。


葛城紗夜の足跡は確実に残っている。メモという形で、澪の記憶という形で。


家に帰る道すがら、澪は今日の発見について考えていた。


図書室に残された数多くのメッセージ。葛城紗夜の孤独と絶望、そして希望。すべてが澪の心に深く刻まれた。


彼女は必死に生きていた。誰からも見えない存在として、それでも自分の証明を続けていた。


澪はそんな彼女を、絶対に忘れるつもりはなかった。


その夜、澪は手帳に今日発見したメッセージをすべて記録した。葛城紗夜の言葉、その想い、すべてを文字に残した。


たとえメモが消されても、澪の記録が残る限り、葛城紗夜の声は失われない。


澪は窓の外を見た。夜空に星が輝いている。その中の一つが、葛城紗夜の魂のような気がした。


「明日も図書室に行く」澪は星に向かって誓った。「あなたが一人じゃないって、感じられるように」


風が窓を揺らし、どこかから本のページをめくる音が聞こえたような気がした。


葛城紗夜が、どこかで本を読んでいるのかもしれない。澪のことを思いながら。


澪は微笑んだ。


図書室は、二人をつなぐ特別な場所になった。見えない少女と、彼女を覚えている少女の、静かな交流の場。


それは誰にも邪魔されることのない、かけがえのない絆だった。







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