第5話「ノイズに潜む声」



五日目の朝礼で、一ノ瀬澪は一つの思いつきに駆られた。


校長の話を録音してみようと思ったのだ。


なぜそう思ったのかは、自分でもよくわからない。ただ、何かを記録しておかなければならないという衝動があった。葛城に関するすべての証拠が消されていく中で、音だけでも残しておきたかった。


澪はスマートフォンを取り出し、録音アプリを起動した。音量を調整して、マイクを校長の方向に向ける。


体育館に全校生徒が集まっていた。いつものように、校長が壇上で新学期の話をしている。退屈な内容で、多くの生徒がうとうとしていた。


「新しい年度が始まって一週間が経ちました。皆さんには、有意義な学校生活を送ってほしいと思います」


校長の声が体育館に響く。澪は録音ボタンを押した。スマートフォンの画面に、音声の波形が表示される。


しかし、画面を見ていると奇妙なことに気づいた。


音声の波形が、時々不規則に大きくなる瞬間があった。校長の声だけなら一定のはずなのに、突然音量が跳ね上がる部分がある。


澪は周りを見回した。体育館には特別な雑音はない。生徒たちも静かに座っている。それなのに、録音には何か別の音が混入しているようだった。


「努力を惜しまず、互いに協力し合って、充実した一年にしてください」


校長の話は続いている。澪は録音を続けながら、波形の変化を注意深く観察した。


不規則な音量の跳ね上がりは、一定の間隔で起こっているようだった。まるで誰かが小さな声で何かを言っているかのような、規則的なパターンがあった。


朝礼が終わると、澪は急いで教室に戻った。一人になって、録音を確認したかった。


教室に着くと、澪はイヤホンを装着してスマートフォンの録音を再生した。


校長の声が聞こえてくる。「新しい年度が始まって一週間が経ちました」


澪は音量を最大にして、注意深く聞いた。校長の声の向こうに、何か別の音があるような気がした。


「皆さんには、有意義な学校生活を」


その時、澪は息を呑んだ。


校長の声に重なって、かすかに別の声が聞こえたのだ。


「私はここにいる」


小さな、小さな囁き声だった。女の子の声で、まるで遠くから呼びかけているかのように聞こえる。


澪は録音を巻き戻して、もう一度聞いた。


「私はここにいる」


確かにそう言っている。間違いない。


澪の心臓が高鳴った。この声は葛城の声に違いない。直感でそう感じた。これまで夢や記憶の中で感じていた存在が、ついに音として現れたのだ。


録音を進めると、また別の囁きが聞こえた。


「見つけて」


「忘れないで」


「助けて」


すべて同じ声だった。女の子の悲しげな声が、録音の中に紛れ込んで澪に訴えかけている。


澪は震えていた。これは確実な証拠だ。葛城の存在を証明する、動かしがたい証拠。


しかし、澪だけにしか聞こえないのだろうか。


「おはよう、澪」


成瀬陸が教室に入ってきた。澪は慌ててイヤホンを外した。


「陸、ちょっと聞いてもらいたいものがあるの」


「何?」


澪はスマートフォンのスピーカーで録音を再生した。校長の声が教室に響く。


「どう?何か聞こえない?」


陸は首をかしげた。「校長の話?特に変わったことはないと思うけど」


「校長の声以外に、何か聞こえない?」


「うーん」陸は耳を澄ませた。「少し雑音があるけど、それ以外は特に」


陸には聞こえていなかった。澪が確実に聞こえた囁き声が、陸には全く聞こえていない。


「もう一度聞いてもらえる?音量を上げるから」


澪は音量を最大にして、再び録音を再生した。葛城の声がはっきりと聞こえる部分を選んで。


「私はここにいる」という囁きが、澪の耳には明確に聞こえた。


しかし陸は首を振った。「何も聞こえないよ。校長の話だけ」


澪は絶望的な気持ちになった。また自分だけだった。葛城の声も、澪にだけしか聞こえない。


休み時間になると、澪は宮内ひよりにも録音を聞いてもらった。ひよりは几帳面に耳を傾けたが、結果は同じだった。


「特に変わった音は聞こえませんね」ひよりは眼鏡を押し上げた。「何を聞き取ろうとしているんですか?」


「かすかな声があるような気がして」


「声?」ひよりは再び録音を聞いた。「雑音はありますが、声は聞こえません」


他の何人かのクラスメイトにも聞いてもらったが、誰も葛城の声を聞き取ることはできなかった。


澪だけに聞こえる声。澪だけが知っている存在。


孤立感が深まっていく。


昼休みになると、澪は一人で録音を分析してみることにした。音声編集アプリをダウンロードして、録音の波形を詳しく調べた。


画面に表示された波形を見ると、確かに不規則な部分があった。校長の声の波形とは明らかに異なる、小さなスパイクが所々に現れている。


澪はその部分を拡大して、音量を増幅してみた。


すると、葛城の声がより鮮明に聞こえるようになった。


「澪さん」


今度は自分の名前を呼んでいる。澪の心臓が跳ね上がった。


「澪さん、聞こえていますか」


確実に澪に向けて話しかけている。録音の中から、時間を超えて。


「ありがとう。あなただけが私の声を聞いてくれる」


澪は涙が出そうになった。葛城は一人ぼっちで、必死に声を上げている。


「でも危険です。あまり深く関わると、あなたも消されてしまう」


澪は震えた。消される?自分も?


「私のことは忘れて、普通の生活を送ってください」


澪は首を振った。忘れるなんてできない。葛城を見捨てるなんてできない。


その時、誰かが澪の肩に手を置いた。


振り返ると、霧島教諭が立っていた。いつの間に近づいてきたのか、全く気づかなかった。


「一ノ瀬さん、何をしているんですか?」


「音声の確認をしてました」


「音声?」霧島教諭は澪のスマートフォンを見た。「何の音声ですか?」


「朝礼の録音です」


霧島教諭の表情が微妙に変わった。目の奥に警戒の色が浮かんだ。


「なぜ朝礼を録音したんですか?」


「校長の話を復習したくて」


「そうですか」霧島教諭は澪のスマートフォンをじっと見つめた。「録音は消去した方がいいでしょう」


「なぜですか?」


「学校の許可なく録音することは、適切ではありません」


霧島教諭の言葉には、有無を言わせない強さがあった。澪は反論できなかった。


「今すぐ消去してください」


澪は迷った。これは葛城の存在を証明する唯一の証拠だった。しかし霧島教諭の圧力に抗うことはできない。


仕方なく、澪は録音ファイルを削除した。画面から音声データが消えていく。


「よろしい」霧島教諭は満足そうに頷いた。「今後は、不要な録音はしないでください」


教諭は澪の前を立ち去った。澪は一人、絶望的な気持ちで残された。


また証拠が消された。葛城の声も、澪の手から奪われた。


しかし、澪の記憶には残っている。葛城の声、その内容、すべてを覚えている。


午後の授業中、澪は別のことを思いついた。


録音ファイルは削除したが、スマートフォンの中には削除履歴が残っているかもしれない。澪は授業を聞くふりをしながら、スマートフォンを操作した。


ごみ箱フォルダを確認すると、削除された録音ファイルがあった。澪は内心で喜んだ。


しかし、ファイルを復元しようとすると、エラーメッセージが表示された。


「ファイルが破損しています」


澪は何度も試したが、結果は同じだった。録音は完全に失われていた。


まるで、最初から存在していなかったかのように。


放課後、澪は図書室に向かった。今日も図書係の仕事があったが、それより葛城との接触を試みたかった。


図書室は静寂に包まれていた。澪は書架の間を歩きながら、小さく呼びかけた。


「いる?聞こえる?」


返事はない。しかし、本棚の向こうから微かな音が聞こえたような気がした。


澪は音の方向に向かった。奥の書架で、一冊の本が床に落ちていた。


「音響学入門」というタイトルの本だった。澪はそれを手に取った。


本を開くと、しおりが挟まっていた。しおりには文字が書かれている。


「声は魂の表れ」


それだけの短い文章だった。しかし澪の心に深く響いた。


葛城の声は、彼女の魂が発する叫びなのだろう。存在を証明しようとする、必死の訴えなのだろう。


澪は本を借りることにした。家でゆっくりと読んでみたかった。


図書室を出る時、澪は振り返った。書架の奥に、人影が見えたような気がした。


今度ははっきりと見えた。葛城だった。


彼女は澪に向かって手を振っていた。口の動きから、何かを言っているのがわかった。


「ありがとう」


そう言っているのだ。澪も手を振り返した。


その瞬間、人影は消えた。しかし澪の心には、確かな温かさが残った。


家に帰る道すがら、澪は今日の出来事を整理していた。葛城の声、霧島教諭の妨害、消去された録音。


すべてが、葛城の存在を隠そうとする力に対抗している澪の戦いだった。


証拠は消されても、記憶は残る。声は奪われても、心の中に響き続ける。


澪は葛城を守り抜く決意を新たにした。


その夜、澪は借りてきた本を読んでいた。「音響学入門」という本には、音の性質や伝達について詳しく書かれていた。


その中に、興味深い一節があった。


「音は物理現象であると同時に、心理現象でもある。同じ音でも、聞く人によって異なって知覚される」


澪は納得した。葛城の声が自分にだけ聞こえるのは、特別な感受性があるからかもしれない。


さらに読み進めると、別の一節があった。


「強い感情を伴った音は、通常では聞こえない周波数帯域に記録されることがある」


澪は震えた。葛城の声は、普通の人には聞こえない周波数で録音されていたのかもしれない。だからこそ、澪にだけ聞こえたのかもしれない。


澪は窓の外を見た。夜空に星が輝いている。その中の一つが、葛城の魂のような気がした。


小さくて、遠くて、消えそうだけれど、確実に輝いている。


澪はその星に向かって、心の中で誓った。


「私があなたの声を聞き続ける。どんなに妨害されても、どんなに証拠を消されても、あなたの声だけは忘れない」


風が窓を揺らし、どこかから微かな声が聞こえたような気がした。


「ありがとう」


葛城の声だった。澪は微笑んだ。


声は消せない。心の中に響く声は、誰にも奪うことはできない。


澪は葛城の声を、永遠に心に刻み続けるつもりだった。


それが、澪にできる唯一の、そして最も大切なことだった。


深夜、澪は今日聞いた葛城の声を思い出していた。


「私はここにいる」「見つけて」「忘れないで」「助けて」


すべての言葉が、澪の心に深く刻まれている。


録音は消されても、記憶は消されない。


声は奪われても、想いは奪われない。


澪は葛城の声を、心の録音機能で永遠に保存し続けるつもりだった。


それが澪の、静かな抵抗だった。

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