転校生の名前は、学年名簿にだけある。

ソコニ

第1話「名前だけの転校生」



新学期の朝、一ノ瀬澪は教室に入ると、いつもの席に向かった。


窓際から三番目、中央よりやや後ろの座席。春の陽光が差し込む、悪くない位置だった。澪は鞄を机にかけながら、ふと周囲を見回した。


クラスメイトたちは皆、久しぶりの再会を楽しんでいるようだった。春休みの間に日焼けした者、髪を切った者、少し背が伸びた者。それぞれに小さな変化があって、新しい学年の始まりを実感させる。


澪はそんな光景をぼんやりと眺めていた。特別仲の良い友人がいるわけではないが、クラスの雰囲気は嫌いではなかった。程よい距離感で、居心地が悪くない。


「おはよう、澪」


隣の席の成瀬陸が明るく声をかけてきた。人懐っこい笑顔を浮かべた、クラスでも人気の男子生徒だった。


「おはよう、陸」


澪は軽く手を上げて応えた。陸とは去年から隣同士で、お互いの距離感を心得ている関係だった。


「今年もよろしく。また隣になれて良かったよ」


「こちらこそ」


他愛のない会話を交わしながら、澪は教室全体に目を向けた。机の配置は去年と同じで、生徒数も変わりない。見慣れた顔ぶれが、見慣れた場所に座っている。


午前八時四十分。霧島詩音教諭が教室に入ってきた。


長い黒髪をストレートに下ろした、三十代前半と思われる女性だった。表情に乏しく、常に淡々とした態度で授業を進める。去年から担任を務めているが、澪は彼女の笑顔を見た記憶がなかった。


「おはよう」


霧島教諭は短く挨拶すると、教壇の上に新しい出席簿を置いた。真新しい紺色の表紙が、朝の光を反射している。


「新学期が始まりました。今年度もよろしくお願いします」


事務的な口調で挨拶を済ませると、霧島教諭は出席簿を開いた。澪は何気なくその様子を眺めていた。新しい出席簿には、きれいな文字でクラス全員の名前が書かれているはずだった。


「それでは出席を取ります」


点呼が始まった。澪は窓の外の桜の木を見つめながら、機械的に続く名前の羅列を聞き流していた。散りかけた花びらが風に舞い、薄桃色の絨毯を地面に作っている。


「青木」


「はい」


「飯田」


「はい」


「上田」


「はい」


規則正しく名前が呼ばれ、生徒たちが返事をしていく。澪も自分の順番を待ちながら、ぼんやりと聞いていた。


「大西」


「はい」


その時、澪の注意が教室に戻った。次に呼ばれるはずの名前が、なぜか気になったのだ。理由はわからない。ただ、心の奥で何かが引っかかった。


「葛城」


霧島教諭の声が教室に響いた。


誰も返事をしない。


澪は眉をひそめた。欠席者がいるのだろうか。しかし、教室を見回しても空いている席は見当たらない。全員が出席しているように見える。


沈黙が数秒続いた。霧島教諭は何の反応も見せず、淡々と次の名前を読み上げた。


「川田」


「はい」


点呼は何事もなかったかのように続いていく。澪は首をかしげた。葛城という名前に返事がなかったことを、他のクラスメイトたちは気にしていないようだった。


澪は周囲を見回した。皆、普通の表情で座っている。誰も違和感を覚えていない様子だった。


しかし澪には、確実に違和感があった。葛城という名前が呼ばれた瞬間、教室の空気が微妙に変わったような気がしたのだ。説明のつかない、曖昧な変化だったが、確実に何かが起こった。


「一ノ瀬」


自分の名前が呼ばれて、澪は返事をした。


「はい」


霧島教諭と目が合った瞬間、澪は奇妙な感覚を覚えた。教諭の瞳に、探るような光があったのだ。まるで澪が何かに気づいているかどうか、確かめようとしているかのような。


点呼が終わると、霧島教諭は出席簿を閉じた。その時、澪は出席簿の中身を一瞬だけ見ることができた。ページには確かに「葛城」という文字があった。しかし、その名前だけがなぜか他とは違って見えた。文字の濃さが微妙に違うような、あるいは書かれた時期が違うような。


「今年度の目標について話します」


授業が始まった。しかし澪は集中できなかった。頭の中で「葛城」という名前が繰り返し響いている。


なぜあの名前だけ返事がなかったのか。なぜ霧島教諭は何も反応しなかったのか。なぜ他のクラスメイトたちは気にしていないのか。


休み時間になると、澪は成瀬陸に声をかけた。


「陸、さっきの出席で何か気づかなかった?」


「出席?」陸は首をかしげた。「特に何も。どうかした?」


「返事しなかった人がいたような」


「えー、そうだっけ?」陸は考え込んだ。「全然覚えてないや。誰?」


「葛城って人」


陸の表情が一瞬曇った。微かな困惑の色が浮かんだが、すぐに消えた。


「葛城?聞いたことない名前だなあ。この学校にそんな人いたっけ?」


澪は驚いた。確実に出席で呼ばれた名前なのに、陸は覚えていない。


「今朝、確かに呼ばれてたよ」


「うーん」陸は首をひねった。「俺、ぼーっとしてたのかな。全然記憶にないや」


他のクラスメイトにも聞いてみたが、反応は同じだった。誰も葛城という名前を覚えていない。まるで皆、その瞬間だけ記憶を失っているかのようだった。


澪は混乱していた。自分の記憶が間違っているのだろうか。それとも、他の皆が何かを忘れているのだろうか。


昼休みになると、澪は教室内を注意深く観察した。生徒数を数えてみることにしたのだ。


前から順番に数えていく。一列目、二列目、三列目。澪は慎重に人数を確認した。


結果は三十三人だった。


しかし、机の数は三十四個ある。一つだけ、誰も座っていない机があった。


後ろから二番目の列、窓際の席。その机だけが空いていた。教科書も筆記用具も、何も置かれていない。まるで誰も使ったことがないかのように。


澪は不思議に思った。なぜ机が一つ余っているのだろう。そして、なぜ誰もそのことを気にしていないのだろう。


午後の授業中、澪は霧島教諭の様子を観察していた。教諭は相変わらず無表情で、淡々と授業を進めている。しかし時々、空いている机の方を見るような気がした。


まるで、そこに誰かがいるかどうか確認しているかのように。


放課後、澪は図書係に任命された。図書室の管理を手伝う係で、本の整理や貸出業務を担当する。


「図書室の鍵をお渡しします」


霧島教諭が澪に古い鍵を手渡した。重厚な真鍮製で、長年使われてきた風格があった。


「係の仕事について説明しますので、図書室まで来てください」


澪は霧島教諭について図書室に向かった。廊下を歩きながら、教諭の後ろ姿を見つめていた。黒いスーツに身を包んだ細身の体型で、足音は静かだった。


図書室は校舎の三階にあった。放課後の静寂に包まれた廊下を歩いていると、どこからか微かな足音が聞こえたような気がした。コツ、コツ、という規則正しい音。


澪は振り返ったが、廊下には誰もいなかった。


「こちらです」


霧島教諭が図書室の扉を開いた。古い木製の扉がきしむ音を立てて開き、本の匂いが漂ってきた。


図書室は薄暗く、高い書架が立ち並んでいた。窓から差し込む夕日が、埃の舞う空気を照らしている。


「貸出カードの管理、返却本の整理、閉館時の戸締まりが主な仕事です」


霧島教諭は事務的に説明を続けた。澪は話を聞きながら、図書室内を見回していた。


奥の書架で、何かが動いたような気がした。人影のようなものが、本棚の間を通り過ぎたような。


「質問はありますか?」


「あの」澪は思い切って尋ねた。「葛城さんという方について、ご存知ですか?」


霧島教諭の手が止まった。微かに眉が動いたが、表情は変わらない。


「葛城さん?」


「今朝の出席で呼ばれていた名前です」


「ああ」霧島教諭は短く答えた。「転校生ですね」


「転校生なんですか」


「そうです」


「今日は欠席だったんでしょうか」


霧島教諭は少し間を置いてから答えた。


「体調不良で欠席です」


「明日は来られるんでしょうか」


「わかりません」


素っ気ない返事だった。澪はそれ以上聞くことができなかった。


その時、図書室の奥から本が一冊落ちる音がした。パタン、という乾いた音が静寂を破った。


「風でしょう」


霧島教諭は振り返りもせずに言った。しかし図書室の窓はすべて閉まっている。風が吹くはずがなかった。


「今日はここまでにしましょう」


霧島教諭は急かすように言った。まるでこの場所から早く立ち去りたいかのように。


図書室を出る時、澪は振り返った。暗い書架の間に、人影のようなものが見えたような気がした。制服を着た女子生徒の後ろ姿のような。


しかし、よく見ると何もなかった。


家に帰る道すがら、澪は今日の出来事を整理していた。出席で呼ばれた葛城という名前。誰も覚えていない事実。空いている机。図書室での人影。


すべてが繋がっているような気がした。しかし、どう繋がっているのかはわからない。


夜、ベッドに横になってから、澪は葛城という名前について考えていた。霧島教諭は転校生だと言った。しかし、なぜ誰も知らないのだろう。なぜ机だけが空いているのだろう。


疑問は深まるばかりだった。


窓の外では夜風が吹いている。桜の花びらが舞い散って、窓ガラスに当たっていた。その音を聞きながら、澪は眠りについた。


夢の中で、誰かが澪を呼んでいた。


「一ノ瀬さん」


知らない声だった。女の子の声で、どこか懐かしいような響きがあった。


振り返ると、制服を着た少女が立っていた。顔ははっきりと見えないが、悲しそうな雰囲気を纏っている。


「ありがとう」


少女はそう言って、微笑んだような気がした。


「覚えていてくれて、ありがとう」


澪が何かを言おうとした時、目が覚めた。


朝の光が部屋に差し込んでいる。夢の内容は鮮明に覚えていた。あの少女は誰だったのだろう。


澪は起き上がり、窓の外を見た。新しい桜の花びらが風に舞い、美しい光景を作り出している。


その美しさの中に、澪は何かの始まりを感じた。


昨日から始まった小さな違和感が、今日はもっと大きくなるような気がした。葛城という名前の謎が、もっと深くなるような気がした。


澪は新しい一日を迎える準備をしながら、心の奥で誓った。


この謎を解き明かそう。葛城という名前の正体を突き止めよう。


なぜ自分だけが気づいているのか。なぜ他の皆は忘れているのか。


答えを見つけるまで、澪は諦めるつもりはなかった。


教室で、図書室で、そして夢の中で。葛城という名前が、澪に何かを伝えようとしている。


澪だけに。


その意味を理解するために、澪は今日も学校に向かった。新たな手がかりを求めて、新たな謎を解くために。


散り始めた桜の花びらが、澪の背中を押すように舞い踊っていた。まるで見えない誰かが、澪を応援しているかのように。


澪は振り返ることなく、前に向かって歩き続けた。


答えは必ず見つかる。そう信じて。

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