第五話:名前を呼んで
月曜日の朝。社内の空気はいつも通りだった。
パソコンの起動音、コピー機の作動音、誰かの咳払い。
日常のざわめきのなか、崇は目の前の書類に集中できずにいた。
――湊のことを、考えてしまう。
抱いたときのぬくもり。
繋がったときの熱と、震えと、名前を呼ぶ声。
(俺は、もう戻れないところまで来てしまったのかもしれない)
そんな思考にふと気づき、視線を上げたとき、斜め向かいのデスクで後輩の千夏がこちらをじっと見ていた。
「……何か?」
「いえ、なんか……最近、課長、よく携帯見てますよね」
「そうか?」
「ええ、気のせいならいいんですけど……あの、プライベート、ちゃんと休めてますか?」
気遣いのような、探るようなその言葉に、心のどこかがひやりとした。
笑ってごまかし、話をそらす。
しかし、崇のなかにはひとつの疑念が芽生えていた。
(……もしかして、気づかれてる?)
昼休み。
社外の喫煙所。湊が先に来ていた。
「なあ……誰かに見られてるかもしれない。気をつけろ」
「……崇さん、ビビりすぎ」
「本気だ。後輩の千夏に探られた。無関係じゃないとは思えない」
湊は煙草を咥えたまま、視線を崇に向ける。
その目が、かすかに濁っていた。
「バレたら、どうする?」
「……おまえはどうするつもりだ?」
「崇さんは?」
問い返されて、崇は答えられなかった。
「家庭があるから」――その言葉を口にすることが、今はとても惨めに思えた。
湊は煙を吐いてから、ぽつりと告げる。
「俺さ、子ども、できなかったんだ」
「……え?」
「元の嫁に、そう言われて。結局、気持ちもすれ違って、向こうが出ていった。慰謝料もなにもなくて、ただの終わり」
それが、湊の過去だった。
彼の孤独がどこから始まっていたのか、崇はようやく知った。
「だから、崇さんの“家族がいる”って言葉……すごく羨ましかった。妬ましかった。でも……今はもう、どうでもいい。俺、おまえに名前を呼ばれるだけで、生きていける気がするから」
その目は、まっすぐで、脆くて、哀しかった。
「湊……」
「言って。俺の名前。……ちゃんと」
崇は手を伸ばし、人目を避けるように、湊の指先を握った。
「……湊」
たったそれだけの言葉に、彼は目を細めた。
まるで、世界で一番優しい音に包まれたように。
その夜。
ホテルではなく、また湊の部屋だった。
ベッドに押し倒され、シャツの下に滑り込む崇の手。
湊は震える吐息を吐きながら、脚を絡ませる。
「ねぇ……今日は、名前呼びながらして。ずっと」
「わかった。……湊、見てる。おまえだけしか見えない」
「……好き、崇さん……ずっと、好き……っ」
「……湊……、おまえが欲しい……全部……」
熱と罪悪感が混ざり合うような交わりのなかで、崇は何度も湊の名を呼んだ。
そして気づいていた。
心が、もう家には帰っていないということに。
朝、崇は目を覚ます。
まだ眠っている湊の頬に手を添え、ゆっくりと口を開いた。
「湊……俺、おまえを――」
その瞬間、スマートフォンが震えた。
画面には、妻からの着信。
一気に現実が流れ込んでくる。
崇は、受けるかどうか、一瞬だけ迷った。
(……このまま、出なければいい)
でも、それはできなかった。
崇は立ち上がり、湊に背を向けながら電話を取った。
「もしもし――」
日常と非日常の境界線が、また曖昧になる音だった。
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