自称・天才神絵師いろはと勝手にお供の三妖士~天界で酷評の絵は、なぜか妖どもにバカ受けなのじゃ!~

ふしめろ

第一章:筆のいろはと百鬼夜行

決別!わらわは絵描きとして生きるのじゃ!

 遥か高天原、幾重にも連なる雲海の切れ間より、荘厳なる神殿の群れが陽光を浴びて神々しい威光を放っている。その中でも一際大きく、静謐な気を漂わせるのが「聖記録のせいきろくのみや」であった。

 宮の内部は無数の回廊と広間で構成され、その一区画、「写像の間」と呼ばれる場所には、神々の祭事や天界の重要な出来事を記録した美しい絵巻や絵姿が、壁面を埋め尽くすかのように整然と並べられていた。どれもこれも、神々しいまでの筆致で描かれ、寸分の狂いもなく、神聖さと秩序を体現しているかのようだ。


 その「写像の間」の、最も隅の、やや薄暗い場所で、一人の小柄な姫神――彩葉姫あやはひめが、またしても上司である大神官から厳しい叱責を受けていた。


「彩葉姫! 何度言ったらわかるのだ!」


 大神官の厳格な声が、静まり返った写像の間に響き渡る。


「これは絵ではない! ただの落書きじゃ! 神聖なるこの場を、このような意味不明な線と色の羅列で汚すでないわ!」


 周囲に控える他の神官たちも、まるで出来の悪い虫でも見るかのような冷ややかな視線を、叱責される彩葉姫と、彼女が描いたとされる絵――否、大神官に言わせれば「落書き」――へと向けていた。


 彩葉姫が描いたのは、先日執り行われた豊穣を祈る祭事の記録画であった。しかし、彼女の絵は、写像の間に並ぶ他のどの絵とも似ても似つかない。伝統的な様式や構図は完全に無視され、まるで子供が描いたかのように自由奔放な線が踊り、精霊たちが画面からはみ出さんばかりの勢いで楽しげに舞い、供えられた果物は生命力にあふれて瑞々しく輝いている。そこには、祭事の厳粛さよりも、生命の歓喜そのものが描き出されているかのようだった。だが、それが神殿の「記録画」として認められることは、これまで一度としてなかった。


 彩葉姫は、きゅっと唇を固く噛みしめ、大神官の言葉にぐっと反論をこらえた。白魚のような小さな手は、神殿の装束の袖の中で固く握りしめられている。いつものことだ我慢しろと自身に言い聞かせながらも、腹の底から煮えくり返るような怒りが込み上げてくるのを止められない。


(わらわの絵の何が悪いというのじゃ! 魂を込めて、見たままの、感じたままの祭事の熱気を描いておるのに、この石頭どもめ! こんな、ただ綺麗に並べただけの、色の抜け落ちたような絵で、あの躍動する祭事の何が伝わるというのじゃ! 神々の息吹も、精霊たちの喜びも、何もかも描けておらぬではないか!)


 神殿の画一的な価値観、自由な創作活動など許されぬ抑圧された空気。 彩葉姫の不満は、もう限界にまで達しつつあった。これまで受けてきた数々の仕打ち、自分の魂そのものである絵を心無い言葉で踏みにじられた記憶が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。


 あれは、まだ神殿に来て間もない頃。初めて任された小さな祭事の記録画を、わくわくしながら描いて提出した時のこと。先輩の神官は絵を一瞥するなり、鼻で笑いこう言ったのだ。


「姫様、これは一体…何かの冗談でございますか?まるで幼子の戯画ではございませんか」


 その言葉が、どれほど幼い彼女の心を傷つけたことか。

 またある時は、精霊たちの姿を描くのに夢中になり、本来描くべき神殿の柱を一本描き忘れてしまったことがあった。完成した絵を見た別の神官は、ため息混じりに言った。


「彩葉姫、あなたの描くものは、どうしてこうも基本がなっていないのです?これでは記録画とは呼べません。単なるあなたの空想画です」


 魂を込めて描いた精霊たちの輝きには、誰一人として触れてはくれなかった。

 師と仰いでいた老神官に、一度だけ自分の想いを打ち明けたこともあった。どうすれば自分の絵を認めてもらえるのか、と。老神官は悲しそうな目で彩葉姫を見つめ、静かに諭した。


「姫よ、あなたの感性は豊かすぎるのかもしれぬ。じゃが、ここでは記録こそが全てなのじゃ。記録とは、個性を表現するのではなくその時あるものを正しく書き表し伝えることなのじゃ。決められた様式に則って寸分違わず写し取る、それができぬのなら……別の宮に移ったほうがいいのかもしれぬ」


 その先の言葉は、彩葉姫には聞くことができなかった。

 祭事の準備のために描いた下絵が、いつの間にか他の神官によって「修正」され、全く面白みのない、型にはまっただけの絵に描き変えられていたことも一度や二度ではない。その度に、彩葉姫は自分の内なる声が押し殺されていくような無力感に苛まれた。


 些細なことでも、彼女の感性は周囲から浮き上がった。神殿の庭に咲く神聖な花を見て、他の神官たちがその均整の取れた形や伝統的な色彩を褒め称える中、彩葉姫は風に揺れる花びらの自由な動きや、花弁に宿る生命の微かなきらめきに心を奪われ、それを絵にしようとしては「不敬だ」と咎められた。


 これらの記憶が、怒りの炎に油を注ぎ、彼女の中で黒い渦となって荒れ狂う。もう、我慢の限界だった。


 その時、業を煮やした大神官が、さらに厳しい声で決定的な言葉を突きつけた。


「お前のような者に、これ以上神聖なる筆を握らせるわけにはいかぬ! その『天筆てんぴつ』をこちらへ渡せ!」


 大神官が、彩葉姫が腰に差した一本の古びた筆――天筆を指さし、取り上げようと手を伸ばした。その筆は、彩葉姫の系譜に代々受け継がれてきたものであり、彼女にとってはただの絵筆ではない。物心ついた時から常に傍らにあり、嬉しい時も、悲しい時も、怒りに震える時も、彼女の感情を受け止め、共に表現してきた、まさに彼女の魂そのものと言ってよい存在だった。

 これを奪われるということは、彼女のこれまでの全てを、そしてこれからの未来すらも否定されるに等しい。


 その瞬間、彩葉姫の中で、何かがぷつりと切れる音がした。 長い間抑え込んできた感情が、堰を切ったように溢れ出す。


「この筆はッ…! この筆は、わらわの魂じゃあッ! 誰にも渡さぬぞッ!」


 彩葉姫は、生まれて初めて出すような大声で叫び、大神官が天筆に伸ばした手を荒々しく振り払った。いつもは伏せがちだったその瞳には、怒りと決意の炎が赤々と燃え盛っていた。


「こんな息の詰まる場所、もう我慢ならんのじゃ!」


 神殿中に響き渡るような、決然とした声。大神官も、周囲の神官たちも、あまりの剣幕に呆気に取られて言葉を失っている。


「見ておれ! わらわは下界に降りて大絵師になり、おぬしら石頭ども全員をギャフンと言わせてやるからのう!」


 彩葉姫は言い放つと、大神官に背を向け、写像の間を飛び出した。もう、彼女の心に迷いはなかった。怒りのままに写像の間を足早に抜け出すと、震える手で腰の天筆を固く、固く握りしめた。背後からは、


「ま、待たぬか! 彩葉姫!」

「お待ちください、彩葉姫! 早まってはなりませぬぞ!」


 大神官の狼狽した声や、他の神官たちの制止の声が追いかけてくるのが聞こえたが、彩葉姫はそれら全てを無視した。もう、あの者たちの言葉など何一つ聞きたくもなかった。

 迷いのない足取りで自分の私室へと向かう。


 神殿内の彼女の部屋は、まるで存在を忘れられているかのように、本宮から離れた隅の一室で、調度品も少なく簡素なものだった。だが、そこは唯一、彩葉姫が誰にも邪魔されずに自分の魂を解放できる場所でもあった。壁の所々には、表立っては見せられぬ彼女がこっそりと描いた「らくがき」――踊る草花、歌う小鳥、夜空を駆ける星々――が、巧妙に隠されていた。それら一枚一枚を丁寧に剥がし、他の質素な私物と共に小さな風呂敷に手早く包み込んでいく。

 何度も、何度も、この息の詰まる神殿を飛び出してやろうかと考えた。その度に、自分にはどこにも行き場などないのだと思いとどまってきた。だが、もう限界だった。せめてもの鬱屈した気持ちの表れか、いつ飛び出すことになってもいいようにと、荷物は常にまとめられる状態にしてあったのだ。それ故、準備は驚くほどすぐに済んだ。

 衣類数点、粗末な櫛、天筆と、描き溜めた「らくがき」の束。それらを全てまとめ終えると、彩葉姫の私室には、本当に何も残っていなかった。まるで、最初から誰も住んでいなかったかのように。


 がらんどうになった部屋を振り返ることなく飛び出し、彩葉姫は神殿の出口――下界へと通じる唯一の門へと向かって、ひたすら廊下を突き進んだ。

 道中、何人かの顔見知りの神官や女官たちとすれ違う。彼らは、血相を変え、風呂敷包み一つを抱えて一心不乱に歩く彩葉姫のただならぬ様子に一様に驚きの表情を浮かべたが、皆、遠巻きに彼女の姿を見ているだけであった。

 その視線の中には、僅かながら心配の色を浮かべる者もいたかもしれない。だが、誰一人として彼女に声をかけ、引き留めようとする者はいなかった。まるで、腫れ物にでも触るかのように。あるいは、厄介払いができると安堵しているかのように。


(…ふん。誰も止めぬのか。どうせ、わらわのような落ちこぼれがいなくなってせいせいしたとでも思っておるのじゃろう)


 そう思うと、目頭がじわりと熱くなり、涙が滲む。だが、彩葉姫は唇を強く噛み、決してそれが零れ落ちることは許さなかった。ここで泣いてしまっては、あの石頭どもに負けたような気がしたからだ。

 彼女の孤独は、今に始まったことではない。この神殿において、彼女はずっと浮いた存在だったのだ。そのことを、今更ながら骨身に染みて感じていた。

 どれほど歩いただろうか。ついに、神殿の最も外れにある巨大な門の前に彩葉姫はたどり着いた。見上げるほどに高く、分厚い扉。この門の向こう側には、下界へと続く長く険しい石段と、そして雲海の下に広がる未知の世界が待ち受けている。

 ごくり、と彩葉姫は息をのんだ。一瞬、本当にこの門を開き、飛び出してしまって良いのだろうか、という迷いが心をよぎる。下界は、神殿のように安全な場所ではないと聞く。恐ろしい妖も、意地の悪い人間もたくさんいると。自分一人の力で、本当に生きていけるのだろうか、と。

 しかし、その迷いはすぐに大神官の侮蔑に満ちた言葉や、これまでの数々の屈辱的な記憶によって打ち払われた。


(わらわは、わらわの絵で生きていくと決めたのじゃ!)


 そう心の中で叫ぶと、彩葉姫は顔を上げた。その瞳には、再び強い決意の光が宿っていた。


 彩葉姫は、抱えていた風呂敷の中から一枚の絵を慎重に取り出した。それは、彼女がこっそりと描き上げた「らくがき」の中でも、一番の出来栄えだと自負している作品だった。かつて、天界を巡る天船あまのふねに乗る機会を得た際に、上空から見下ろした聖記録の宮の荘厳な姿と、その時の感動を描き留めた「聖記録の宮鳥瞰図ちょうかんず」である。型破りな構図ではあったが、宮の威容と、それを包む雲海の雄大さ、そして何よりもそこに生きる神々の微かな息吹までが、彼女独特の力強い筆致で生き生きと描かれていた。

 彩葉姫はその絵を、神殿の巨大な門扉の、内側――つまり神殿側――にぺたりと貼り付けた。そして、すうっと息を吸い込むと、両手を絵にかざし、自らの神気を込め始めた。


「な、何をしておるのだ、彩葉姫様!」

「そ、そのようなことをされては…!」


 後ろで門番の神官たちが慌てたように声を上げるが、彩葉姫は振り返りもせず、


「おぬしらは黙っておれ! わらわの最後の餞別じゃ!」


 と一喝する。門番たちはその気迫に押され、それ以上何も言えなくなった。

 彩葉姫が全身全霊の神気を込め終えると、鳥瞰図は淡い光を放ち、まるで門扉そのものと一体化したかのようにそこに固定された。これでもう、自分以外の誰にも――たとえこの天界を統べる天照大神でさえも――この絵を剥がすことはできまい。

 ふう、と一つ息を吐くと、なんだかとてもすがすがしい気分になった。長年胸につかえていたものが、すっと消え去ったような解放感だった。


 彩葉姫は、きっぱりと神殿に背を向けた。門番たちが未だ呆気に取られて見守る中、彼女は胸を張り、高らかに宣言する。


「さらばじゃ、石頭ども! わらわは今日から自由の身じゃ!もう二度と、この門またぐことはないと思え!」


 そして、希望と不安、積年の怒りと未知への興奮が複雑に入り混じった表情で、彩葉姫は自らの手で重い門扉を力強く押し開いた。

 ギィィ…という重々しい音と共に開かれた門の先には、下界へと続く果てしない石段と、眼下に広がる雄大な雲海。そして、その雲の向こうにかすかに見える、緑深き大地があった。


 彩葉姫は、一瞬だけ目を閉じ、そして再び開くと、決然とした足取りで、未知なる下界への第一歩を、力強く踏み出した。

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