2 藍川莉々愛

 一年三組の教室のドアは、開けっ放しになっていた。

 ゆきちゃんと鈴ちゃん、そして夢奏が足を止めることなく教室に入っていく中、私はほんの数秒ほど足を止めた。

 私は藍川莉々愛。笑顔を絶やさず、みんなから慕われる、憧れ的存在。私は、藍川莉々愛。

 自分に言い聞かせるように脳内で唱え、小さく深呼吸をする。よし、と小声で言うと、教室に足を踏み入れた。

「あ、莉々愛! おはよ」

 私に気付いたクラスメイトのひとりが、声を上げた。それに続くように、教室のあちこちから挨拶の声が飛んでくる。

 どうして私が、こんなふうに注目されているのか。それは未だにわからない。気が付けば、こうして誰からも声をかけられるようになっていた。

 それも、みんなの中に理想の“藍川莉々愛”がいて。簡単に言えば、身近にいるアイドルみたいなものだ。

 だから私は、気取った芸能人のように、ひとりひとりに挨拶を返すのではなく、全員に対して「おはよう」と笑顔で言った。

 初めはぎこちなかっただろうけど、今では自然な笑みと大差ない笑顔の仮面を被ることができている。慣れというものは恐ろしい。

 といっても、たまにそれが崩れていないか不安になることがあるけど。

 そのときは、みんなの反応を見て、まだ上手く笑えているんだと胸を撫で下ろす。

 昔の、心から笑うことができていた私からは想像できないような、大人ぶった姿。それはきっと、黒いパーカーを羽織ったまま、廊下側の一番前の席で本を開いている彼女も思っていることだろう。

 私は一方的に気まずさを感じて、意識的に彼女のほうを見ないようにした。

「莉々愛、ストナウ入れよ!」

 窓際の一番後ろという主人公席に座ると、一足先にカバンを下ろした夢奏が提案してきた。両手を机に置き、身を乗り出す姿は、期待の表れだろう。

「そんなに急かさないの」

 後からやって来たゆきちゃんが、夢奏の身体を引き離した。それが不満だったのか、夢奏は口を尖らせている。

 そんなやり取りを微笑ましく思いながら、私はアプリストアでStory Nowを検索した。候補となるアプリがたくさん表示される。

「ストナウはそれかな」

 鈴ちゃんが指をさして教えてくれて、私はスクロールする手を止める。それは白をベースに、藤色のSが描かれたアイコンだった。そのままインストールをすると、そのアイコンをタップし、アプリを立ち上げる。それから案内に従ってアカウントを作成していった。アイコンの設定や、自己紹介文の設定など、ほかのSNSと大きく違う様子は見えない。本当に、これが今流行っているのだろうか。そんな疑いを抱いてしまうくらい。

「ストナウは、みんな鍵アカみたいな感じになってて、フォローも承認制なんだ」

 夢奏の説明に頷いていると、フォローリクエストの通知が届いた。アカウント名は“ユメ”。視線を上げると、夢奏がにこっと笑っている。

「一番乗り」

 ピースサインまで掲げる様子に、思わず「なにそれ」と返す。

 続いて、鈴ちゃんとゆきちゃんもフォローしてくれた。

 それを承認してフォローを返すけど、三人の投稿はまったく見れない。

「相手の投稿は、自分が投稿しないと見れないんだよ」

 私が不思議そうにしているのが伝わったのか、ゆきちゃんがすかさず教えてくれた。

 それならと、投稿をしようと思ったけど、今度は投稿ボタンが見当たらない。

「今日はまだ通知来てないから、投稿はできなくて」

 なにもかも筒抜けなのが恥ずかしくなるくらい、ナイスタイミングでゆきちゃんが説明してくれる。

 そう言えば、夢奏が一日に一回しか投稿できないって言っていた。今日はまだ、そのタイミングではないらしい。

「通知が届いたら、五分以内に投稿する。写真でも文でもよくて、ちょっとした日記みたいな感じかな。現状報告っていうか。ちょっと遅れても投稿はできるけど、そのときは誰の投稿も見れないって感じかな」

 ゆきちゃんは簡潔に説明してくれた。

 それはつまり、私の日常を切り取って、残していくということ。

 みんなといる瞬間を残すのは抵抗ないけど、ひとりの時間をみんなに見せるのは、なんだか気が引けてしまう。みんなはそこまでさらけ出して、怖くないのだろうか。

「ちなみに、相手の過去の投稿は見れない仕様になってる」

 ゆきちゃんの話に続いて、鈴ちゃんが言った。そして、私にスマホの画面を見せてくれた。そこには、ゆきちゃんのアカウントのホーム画面が表示されている。私が見ている画面と同じで、なにも投稿されていないように見える。

「通知が届いた瞬間の出来事とか感情を共有するの! 素敵だと思わない?」

 夢奏が目を輝かせてこちらを見てくるけれど、夢奏が言うほど惹かれてはいなかった。

 今を共有することが、楽しい? 完全プライベートな瞬間まで覗かれるようになってしまったら、私はいつ“藍川莉々愛”から解放されるの? こんなの、窮屈な場所が増えただけだ。

 なんて正直に言えるわけもなく。

「そうだね」

 私は曖昧に笑ってそう返した。夢奏の笑顔が変わらないことに胸をなでおろしながら、アプリを閉じたときだった。

「藍川、ストナウ始めたの?」

 近くにいたクラスメイトが声をかけてきた。どうやら、私がStory Nowを始めるのを期待していたのは、夢奏だけではなかったらしい。その声に反応して、ひとり、またひとりと私たちの周りに人が増えた。

「フォローしたい!」

「アカウントどれ?」

「莉々愛ちゃんのリアルが知れるなんて、超嬉しい」

 みんなの楽しそうな声を聞けば聞くほど、息が詰まりそうになる。

 本当は、教えたくない。でも、断ったらどう思われるかを考えてしまって、私はノーと言えなかった。

「さすが莉々愛」

「人気者は違うね」

「莉々愛にストナウ教えた夢奏、天才じゃない!?」

 私が囲まれている様子を見ながら、ゆきちゃんたちはそんな会話をしている。

 私はこんな状況、望んでいない。

 私が過ごしたいのは、もっと、なにも考えないで笑っていられたあの時間。

 過去を懐かしみながら、こちらに無関心なまま時間が過ぎるのを待っている彼女に視線を向けた。

 ずっと意識しないようにしている彼女は、山内やまうち遥香はるか。私の幼馴染だ。

 日常のひと時を共有するなら、遥香がいい。私が一番、自然体でいられるから。

 私がそう考えていることが伝わったのか、遥香が一瞬こちらを見た。だけど、ほんの少し顔を顰めて顔を逸らされた。

 ――高校では距離を置きたい。

 高校入学前の春休み、急に遥香はそう告げてきた。あれから半年が経とうとしているけれど、理由はまだ知らない。怖くて、まだ聞けていない。

 でもきっと、私は知らないうちに遥香のことを傷付けていたんだと思う。あんなにも暗い顔をさせてしまうくらい。

 これ以上、遥香を傷付けたくない。ううん、遥香だけじゃない。誰のことも傷付けないように。もう、誰にも嫌われないように。

「はーい、席に着いてー」

 担任の先生がそう言いながら教室に入ってきたことで、私の周りに集まった人たちは解散していった。みんな不満をこぼしながら、各自の席に着いていく。

 誰もいなくなったことで、視界が開ける。青い空を流れていく雲が自由そうに見えて、やけに羨ましく感じた。

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