第8話 人生に失敗がないと、人生を失敗する

 秋の風が窓からそっと吹き込む放課後、昇は一人、美術室の隅で立ちすくんでいた。

 机の上には、丸められたスケッチブックと折れた鉛筆。何度も消しては描き直した跡が残る紙を見つめ、彼は深いため息をついた。


 昇は子どものころから絵を描くのが好きだった。

 でも、中学生になってからは美術部で、周囲の上手な仲間たちに圧倒されてばかりだった。

 「昇の絵は、いつも同じだね」

 何気なく放たれた一言が胸に突き刺さる。

 失敗するのが怖くて、冒険できずにいた。周りに合わせた無難な絵ばかり描いてしまう――

 「自分だけの絵なんて、どうやって描けばいいんだろう……」


 翌週、学校で文化祭が近づく。美術部は全員で壁画を制作することになった。

 昇は背景の空を担当したが、思うように色がのらない。

 何度もやり直しては、結局また無難な青空に落ち着いてしまう。

 「つまんない」「もっと工夫しようよ」

 仲間たちの意見も、昇には耳に痛かった。


 その帰り道、昇は美術部の顧問・川島先生と偶然出会う。

 「最近、楽しそうに描いてないね」

 先生の言葉に、昇はつい胸のうちを打ち明けてしまった。

 「僕、失敗が怖いんです。みんなみたいに上手く描けないし、変な絵を描いて笑われたくない」

 先生は優しく微笑んだ。


 「昇くん、人生に失敗がないと、人生を失敗する――って知ってる? 失敗しないようにばかり生きていると、本当に大切なものに出会えないんだよ。

 勇気を出して失敗してごらん。そうすれば、君だけの絵がきっと見つかるよ」


 その夜、昇は布団の中でじっと考えた。

 失敗を恐れるあまり、いつも無難な道ばかり選んできた自分。

 でも、先生の言葉が、心の奥で小さな火を灯していた。


 翌日、昇は勇気を出して、思い切った色を壁画の空に塗ってみた。

 オレンジと紫、そして夜明けのようなグラデーション。

 「それ、いいじゃん!」「すごい、昇の空だね!」

 仲間たちの反応に、最初は驚いた。でも、その言葉が嬉しくて、思わず笑顔がこぼれた。


 制作が終わり、文化祭当日を迎える。

 来場者が壁画の前で立ち止まり、「この空、きれい」「なんだか力が湧いてくる」と口々に褒めてくれた。

 昇は、初めて“自分だけの絵”で人の心に何かを届けられた気がした。


 「失敗してもいいんだ。むしろ、失敗しないと、新しい自分にはなれないんだ」


 その日の夕方、川島先生が昇に声をかけてくれた。

 「よく頑張ったね。失敗を恐れないって、実はとても難しいこと。でも君はその一歩を踏み出した。だから、これからもっと素敵な絵が描けるようになるよ」


 昇はうなずきながら、これからも自分の色を信じて、たくさんの失敗を重ねていこうと心に決めた。


【コラム】偉人と名言

斎藤茂太

「人生に失敗がないと、人生を失敗する」


斎藤茂太(さいとう・しげた)は、精神科医として多くの人の悩みに寄り添い、またエッセイスト・作家としてもたくさんの生きるヒントを遺しました。

彼の父親は、近代短歌を代表する歌人であり、また優れた精神科医でもあった斎藤茂吉です。

茂吉の文学や医療への情熱、そして「人間らしく生きること」の大切さは、茂太さんにも受け継がれました。


「人生に失敗がないと、人生を失敗する」という名言には、失敗そのものを恐れるよりも、失敗しないこと=挑戦しないことこそが、本当の“失敗”である、という深い教えが込められています。

斎藤家は親子二代にわたって“人間らしくあること”や“自分の心に正直に生きること”の大切さを伝えてきました。


人は誰でも、間違いやつまずきを経験します。けれど、失敗したときにこそ本当に大切なことや自分自身の可能性に気づけるのです。


この言葉は、何かに挑戦するとき、つい怖くて踏み出せない私たちの背中をそっと押してくれます。

「失敗は、怖くない。むしろ、それこそが人生の宝物だ」――そう信じて、新しい一歩を踏み出してみましょう。

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