第2話 変な人
お爺さんが足を止めたのは、廊下の突き当りにある木製のドアの前だった。
振り向いたお爺さんが私に告げる。
「ここがお前と
「――二人で一部屋なんですか?!」
「当たり前だろう? 夫婦の部屋だからな。中に入ってごらん」
お爺さんがドアの前から一歩退く。
私は躊躇いながらドアノブに手をかけ、押し開けた。
中は広々としたリビングスペース。ローテーブルに大型テレビ、小さな冷蔵庫もある。
八畳間くらいのフローリングに足を踏み入れ、部屋を見回していく。
大きな窓にはベージュのカーテンが引いてある。
入口の傍には、左右にそれぞれドアが付いていて、別の部屋が続いてるみたいだ。
お爺さんが片方のドアを手で示して告げる。
「そっちがお前の個室だ。見てごらん」
私は頷いて隣の部屋のドアを開けた。
****
私の個室は、がらんとしていた。
中身のないウォークインクローゼットにドレッサー、大きな姿見。
六畳間程度の部屋には、ベッドもない。
「私の服はどうしたんですか?」
「全て処分した。明日、
入籍届も出さなければならないしね」
私は驚いてお爺さんに振り返る。
「――もう結婚しろって言うんですか?!」
お爺さんは穏やかに微笑んで答える。
「
だが法律上の問題もある。だから早めに行政手続きは済ませておきなさい」
いくら私が十八歳で結婚できるからって、高校生に言う言葉じゃないんじゃない?
茫然とする私にお爺さんが告げる。
「
そのまま、お爺さんは私に背中を向けて部屋から出ていった。
ドアが閉まる音を聞きながら、私はその場に思わず座り込んでしまった。
「……お父さん、私はどうしたらいいの?」
がらんとした個室の中で、私は形見のネックスレスを握り締めて呟いていた。
****
へたり込んでぼんやりしていると、ドアがノックされて声が聞こえる。
「入って大丈夫か」
――
「はい、大丈夫です」
私はいつのまにか涙ぐんでいた目をブラウスの袖で拭い、立ち上がってスカートを整えた。
ドアを開けて
スーツ姿の
「どうした、泣いていたのか」
「……ほっといてください。それより、本当に私と結婚するんですか」
「お前が
契約しなければ、もう少し時間を稼げたんだがな」
そんなことを言われても、あの場で逃げようがなかったじゃない。
私が俯いていると、
「こんな何もない部屋に居ても仕方がないだろう。リビングで座っていろ」
そう言って私に背中を向け、部屋から出ていってしまった。
……いきなり放置かい。
「どうしろってのよ、本当に」
私もため息をつきながら、隣のリビングに移動した。
****
ローテーブルの近くに腰を下ろし、鞄の中身を確認する。
教科書とノート、ペンケースに空のお弁当箱。後はお財布とスマホ。
……これが今の全財産か。スマホ以外、お金になる物なんて何もない。
鞄を放り出し、ローテーブルの上にあるリモコンを手に取った。
適当にいじってテレビをつけ、チャンネルを切り替えていく。
ろくな番組がやってないな。時間が悪いのか――時計を探して確認すると、午後六時過ぎ。
私はテレビを消してリモコンを放り出し、静かになった室内でクッションを抱き寄せて横になった。
いきなり部屋を引き払われて、家財を全部処分されて、知らない土地に連れて来られて。
学校だってもう通えなくなって、バイトも突然辞めさせられて。
その上、明日は入籍届を出せ? いい加減にしろって言うの!
ここの所、連日のバイト続きで疲れ切って居た私は、そのまま意識が遠くなっていった。
****
ふと目が覚めると、私はブランケットを被されて眠っていた。
慌てて起き上がり、時計を見る――うわ、もう午後九時過ぎ?!
部屋を見回すけど、
……いや、遠くから物音が聞こえる。
まだ開けてないドアの向こうから、かすかにカタカタと音が聞こえてくる。
ドアノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開けていった。
隣の部屋にも、
あるのは大きなダブルベッドと、ドアが二つ。
……これ、夫婦の寝室って奴?
部屋の中央にあるドアを開けると、シャワー室付きの洋室トイレ――ユニットバスか。
まだ未使用っぽいな。
もう片方のドアの前に行くと、その向こうから不規則なカタカタという音が聞こえる。
ドアノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開ける――居た。
悟さんは机に座り、ノートパソコンのキーボードを叩いていた。
何をしてるのかは、背中で隠れて分からない。
「あの、
「――起きたのか。なんだ?」
「えっと、この部屋はなんですか?」
「俺の仕事部屋だ。明日のうちに俺の荷物もここに運び込まれる。
許可なく勝手に入ってくるなよ」
そんなこと言われても、知らなかったんだから仕方ないじゃない。
「ごめんなさい……」
私がリビングに戻ろうと
慌ててお腹を押さえたけど、聞こえちゃったかな……。
振り向くと
「……飯でも食いに行くか。夕食はもう終わったから、近くの店まで我慢できるか?」
立ち上がった
私がおずおずと頷くと、
「付いてこい。こっちだ」
私の前を通り過ぎ、
私も慌てて、その背中を追いかけた。
****
私は靴を履いて玄関の外で待っていた。
四月の夜風は、まだ冷たい。
玄関の前に黒い車がゆっくりとやってきて、運転席から
「乗れ」
……そんだけ? どっから乗れと?
私が戸惑っていると、
……後ろに乗れと。
私は黙って後部座席に乗り込み、シートベルトを締める。
ラジオすら流れない静かな車内で、
「三十分かかる。我慢しろ」
「そんなに遠いの?!」
私はお腹を手で押さえながら、窓の外の景色で空腹を紛らわした。
****
チェーン店とは雰囲気が違うシックな店内で、私はハンバーグスセットを食べていた。
味付けが濃い……ソースが違うのかなぁ?
そういえば、さっきも仕事部屋で何かしてたっけ。
「
「――俺の仕事か? IT関係だ」
それっきり、黙ってスマホに向かって何かを打ち込んでいく。
……そんだけかーい。愛想がない人だなぁ。
私も黙って食事を終わらせ、紅茶を一口飲む。
忙しそうな
「……本当に私たち、夫婦なんですか?」
「もう決まったことだ。諦めろ」
「じゃあ、今夜は一緒に寝るんですか?」
「少なくとも、同じ部屋で眠ることにはなる。
そうしないと
マジかー?! 嫌だよ、今日会ったばかりの男性と同じ部屋で寝るとか!
私が顔をしかめていると、
「安心しろ。子供に手を出す趣味はない」
「――これでも十八歳、成人ですけど?!」
「静かにしろ。店の中で大きな声を出すな」
慌てて店内を見回すと、他のお客さんたちと目が合った。
首をすくめていると、
「食べ終わったなら帰るぞ。まだ仕事が残っている」
コーヒーを飲み干した
「――わぁ、待ってください!」
私も慌ててその後を追いかけた。
****
帰りの車の中で、後部座席から運転席の悟さんを見つめる。
……さっき、『まだ仕事が残ってる』って言ってたよね。
じゃあスマホをいじってたのも、仕事をしてたのかな。
仕事をしてたのに、私の晩御飯に付き合ってくれたの?
……優しいんだか、そうじゃないんだか、掴みどころのない人だ。
「あの、今日はありがとうございました」
「なんのことだ?」
「だって……晩御飯、食べさせてくれたし」
「子供から夕飯を取り上げてどうする。子供は食べて寝てろ」
私はむっとしながら唇を尖らせた。
「なんでそうやって子ども扱いするんですか!
自分だってまだ二十五歳じゃないですか!」
「だが仕事はしている。お前はまだ学生だろうが」
そりゃ、そうなんだけど。
なんだか、同じ車内に居るだけで緊張が抜けていく気がする。
満腹になって眠気を催した私は、揺れる車の中で窓ガラスに寄りかかった。
……変な人。
私の意識は、そのまま再び遠くなっていった。
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