第16話『異端者』



 毒入りの聖餐を800人が飲み干した瞬間、世界が音を失った。


 礼拝堂に響いていたのは、静寂だけだった。


 死の静寂ではない。


 何かが始まる前の、不気味な静寂だった。


 私は祭壇の前で縛られたまま、信者たちの様子を見つめていた。


 みんな、毒が効くのを待っているようだった。


 でも、誰も倒れない。


 誰も苦しまない。


 ただ、座ったまま静かに微笑んでいる。


「おかしい」


 私は小さく呟いた。


 本当に毒だったなら、もう何人かは倒れているはずだ。


 でも、800人全員が無事に座っている。


 ひかりが祭壇の上で両手を広げた。


「皆さん、おめでとうございます」


 彼女の声が礼拝堂に響く。


「神の血を飲んだ皆さんは、今この瞬間から神の子となりました」


 信者たちが一斉に歓声を上げた。


 毒ではなかった。


 ただの赤ワインか何かだったのだろう。


 でも、なぜ?


 美羽は「毒入りの聖餐で集団自殺」と言っていた。


 私は混乱した。


 計画が変わったのか?


 それとも、美羽の情報が間違っていたのか?


 ひかりが私を見下ろした。


「沙羅、あなたも神の血を飲みなさい」


 信者の一人が、新しいコップを私の口元に持ってきた。


 私は首を振って拒否した。


「飲まない」


「飲みなさい」ひかりの声が冷たくなった。「これは命令です」


「嫌よ」


 ひかりは溜息をついた。


「仕方ありませんね」


 彼女は信者たちに向かって言った。


「沙羅は異端者です」


 その言葉で、礼拝堂の空気が変わった。


 800人の視線が、一斉に私に向けられた。


 その目には、憎悪と殺意があった。


「異端者は神の国には入れません」ひかりは続けた。「彼女には、相応の処罰が必要です」


 信者たちが立ち上がった。


 800人が、ゆっくりと私に向かってくる。


 私は必死にロープを解こうとしたが、きつく縛られていて動けない。


 このままでは、800人にリンチされて殺される。


 でも、その時、異変が起きた。


 礼拝堂の奥から、不気味な音が聞こえてきたのだ。


 ゴリゴリという、石を削るような音。


 信者たちも立ち止まって、音の方向を見た。


 音は、礼拝堂の最奥部、例の禁じられた扉の向こうから聞こえてくる。


 ひかりの表情が変わった。


 初めて見る、恐怖の表情だった。


「まさか」


 ひかりが呟いた瞬間、禁じられた扉が勢いよく開いた。


 そこから現れたのは、人間ではなかった。


 黒い影のような、不定形の何かだった。


 それは煙のように床を這い、祭壇に向かってくる。


 信者たちが悲鳴を上げた。


 みんな、一斉に出口に向かって走り出した。


 でも、影はもっと速かった。


 影は逃げる信者たちに次々と触れていく。


 そして、触れられた信者は、その場で倒れた。


 死んだのではない。


 意識を失っただけのようだった。


 でも、倒れた信者の顔は、恐怖で歪んでいた。


 影が何をしたのかはわからないが、とんでもなく恐ろしいことだということは理解できた。


 ひかりは祭壇の上で立ち尽くしていた。


 彼女も、影の正体がわからないようだった。


「こんなはずでは」


 ひかりが震え声で呟いた。


 影は祭壇の前まで来ると、突然形を変えた。


 人間の形になったのだ。


 でも、顔は見えない。


 のっぺらぼうのような、平坦な顔だった。


 その存在が口を開いた。


 声は聞こえなかったが、唇の動きで何を言っているかわかった。


「我が名は神なり」


 私は身震いした。


 これが、ひかりの言っていた「真の神」なのか?


 でも、神にしては気味が悪すぎる。


 むしろ、悪魔のような存在だった。


 存在はひかりを見上げた。


「汝、我を呼びし者よ」


 ひかりは必死に微笑もうとしたが、恐怖で顔が引きつっている。


「はい、私があなたを」


「汝の願いを聞き入れよう」


 存在がひかりに近づく。


「でも、代償が必要だ」


「代償?」


「汝の命を差し出せ」


 ひかりの顔が青ざめた。


「え?」


「神を名乗る者には、神の責任が必要だ」


 存在がひかりの首に手をかけた。


「待って」ひかりは慌てた。「私は神の代理人であって、神ではありません」


「嘘をつくな」


 存在の声が低くなった。


「汝は自分を神と名乗った」


「それは比喩で」


「比喩で神を名乗る者は、冒涜者だ」


 存在がひかりの首を締め始めた。


 ひかりは苦しそうに声を上げた。


「助けて」


 でも、信者たちは既に逃げてしまっていた。


 礼拝堂には、私とひかりと照、そして謎の存在しかいない。


 照は祭壇の隅で震えていた。


 彼も、この展開は予想していなかったようだった。


 ひかりがだんだん息ができなくなってくる。


 このままでは、彼女は殺されてしまう。


 私はひかりが嫌いだった。


 彼女のせいで、伊織も美羽も死んだ。


 でも、目の前で人が殺されるのを黙って見ているのは耐えられなかった。


「やめて!」


 私は叫んだ。


 存在が私を振り返った。


 のっぺらぼうの顔に、突然目が現れた。


 赤く光る目だった。


「汝も同罪か?」


 存在が私に近づいてくる。


 ひかりから手を離し、今度は私を狙っている。


「違う」私は必死に説明した。「私は神さまごっこに反対してた」


「では、なぜここにいる?」


「捕まったのよ」


 存在は私を見つめた。


 その目には、不思議な力があった。


 私の心の中を見透かすような力だった。


「なるほど」


 存在は頷いた。


「汝は確かに無実だ」


 存在は私のロープを切ってくれた。


 私は自由になったが、まだ恐怖で動けなかった。


「では、汝に選択権を与えよう」


 存在が私に言った。


「この女を殺すか、生かすか」


 存在はひかりを指差した。


 ひかりは首を押さえて、苦しそうに咳き込んでいる。


「選択権?」


「そうだ」存在は頷く。「汝が決めよ」


 私は混乱した。


 ひかりを殺すか、生かすか。


 そんな選択を私がするべきなのか?


 でも、存在は本気のようだった。


 私の答えを待っている。


 ひかりは私を見上げた。


 その目には、懇願の色があった。


 助けてほしいと訴えている。


 でも、彼女は数百人を殺した殺人者だ。


 生かしておく理由はない。


 むしろ、ここで始末した方が世の中のためになる。


 でも、それは私が決めることなのか?


 私は人を殺す権利があるのか?


 たとえ相手が殺人者だとしても。


「時間がない」存在が催促した。「早く決めよ」


 私は深く息を吸った。


 そして、決断した。


「生かして」


 存在が首をかしげた。


「なぜだ?」


「殺すのは間違ってる」私は答えた。「たとえ相手が悪人でも」


 存在は私を見つめた。


 長い間、無言で見つめていた。


 そして、突然笑い出した。


 不気味な笑い声が、礼拝堂に響いた。


「面白い」


 存在は笑いながら言った。


「汝は本当に面白い人間だ」


 存在はひかりから完全に手を離した。


 ひかりは床に倒れて、激しく咳き込んでいる。


「では、約束通り生かしてやろう」


 存在は私に向き直った。


「だが、汝にも責任を取ってもらう」


「責任?」


「この女を監視せよ」存在はひかりを指差した。「二度と人を殺させるな」


「でも、どうやって?」


「それは汝が考えることだ」


 存在は私の肩に手を置いた。


 その瞬間、奇妙な感覚が体を駆け抜けた。


 何かが私の中に入ってきたような感覚だった。


「今、汝に特別な力を与えた」


 存在が説明した。


「その力で、この女を縛れ」


 私は自分の手を見た。


 見た目は何も変わっていない。


 でも、確かに何かが違った。


 体の奥から、不思議なエネルギーが湧いてくる。


「使い方は、自分で見つけよ」


 存在はそう言うと、再び影の形に戻った。


 そして、元来た扉の向こうへ消えていった。


 礼拝堂に、再び静寂が戻った。


 でも、今度は本当の静寂だった。


 恐怖の静寂ではなく、嵐が過ぎ去った後の静寂だった。


 私はひかりの側に行った。


 彼女はまだ床に倒れて、咳き込んでいる。


「大丈夫?」


 ひかりは私を見上げた。


 その目には、今まで見たことのない感情があった。


 恐怖だった。


 神を自称していた彼女が、初めて恐怖を感じていた。


「あなたが」ひかりは震え声で言った。「私を助けたの?」


「そうよ」


「どうして?」


 私は考えた。


 なぜ私はひかりを助けたのか?


 論理的に考えれば、彼女は死ぬべき人間だった。


 でも、感情的には殺させたくなかった。


「わからない」私は正直に答えた。「ただ、あなたを殺させたくなかった」


 ひかりは涙を流した。


 初めて見る、彼女の人間らしい表情だった。


「ごめんなさい」


 ひかりが謝った。


「本当に、ごめんなさい」


 でも、私は彼女を許すつもりはなかった。


 謝罪で済む問題ではない。


 数百人の命が失われているのだから。


「謝って済む問題じゃない」私は冷たく言った。


「わかってる」ひかりは頷いた。「でも、他に何ができるの?」


「償いなさい」


「償い?」


「死んだ人たちのために」私は立ち上がった。「一生かけて償いなさい」


 ひかりは黙って頷いた。


 彼女の中で、何かが変わったようだった。


 神を自称していた傲慢さが消えて、普通の人間に戻っていた。


 でも、それでも私は彼女を信用できなかった。


 存在の言葉通り、監視しなければならない。


 二度と人を殺させないために。


 そのとき、照が祭壇の隅から出てきた。


 彼はずっと隠れていたのだ。


「すげえな」照は私を見て言った。「お前、神と対等に話してたじゃん」


「あれは神じゃない」私は答えた。「何か別の存在よ」


「でも、超自然的な力を持ってた」


「そうね」


 私は自分の手を見た。


 存在から与えられた力。


 これが何なのか、まだわからない。


 でも、きっと重要な意味があるのだろう。


 照はひかりを見下ろした。


「で、こいつはどうするんだ?」


「監視する」私は答えた。「二度と悪さをしないように」


「お前が?」照は笑った。「無理だろ」


「やってみる」


 照は肩をすくめた。


「まあ、お前の勝手だけどな」


 彼は出口に向かって歩き始めた。


「俺は帰るわ」


「待って」私は照を呼び止めた。「あなたも責任があるでしょ」


「俺?」照は振り返った。「俺は何もしてないよ」


「神さまごっこを企画したのはあなたでしょ」


「それは遊びのつもりだった」照は言い訳した。「まさかこんなことになるとは思わなかった」


 私は照を見つめた。


 彼は本当に何も反省していなかった。


 ひかりとは違って、罪悪感も感じていない。


 この男は、根本的に危険だった。


 でも、今の私には照を止める力はなかった。


 存在から受けた力も、使い方がわからない。


 照は礼拝堂から出て行った。


 残されたのは、私とひかりだけだった。


 私はひかりを立たせて、外に連れ出した。


 学園の中は、既にもぬけの殻だった。


 信者たちは、謎の存在に恐怖して逃げ出してしまったのだろう。


 廊下には、倒れたままの生徒が何人かいた。


 存在に触れられて、意識を失った生徒たちだった。


 私は彼らの脈を確認した。


 みんな生きている。


 ただ眠っているだけのようだった。


 ひかりも心配そうに見ていた。


「この子たちは大丈夫なの?」


「わからない」私は答えた。「でも、生きてる」


 私たちは学園の外に出た。


 外は既に夜が明けていた。


 いつの間にか、一晩過ぎていたのだ。


 学園の門には、警察車両がたくさん止まっていた。


 ようやく外部の介入が始まったようだった。


 警察官の一人が私たちに近づいてきた。


「君たち、大丈夫か?」


「はい」私は答えた。


「他に生存者はいるか?」


「中にまだ何人かいます」私は説明した。「でも、みんな意識を失ってます」


 警察官は無線で連絡を取った。


 すぐに救急車が呼ばれるだろう。


 私はひかりを見た。


 彼女は黙って地面を見つめていた。


 もう、神を気取る傲慢さはなかった。


 ただの、罪を背負った少女がいるだけだった。


 でも、それでも私は油断できなかった。


 人は簡単には変わらない。


 ひかりが本当に改心したのか、それとも演技なのか、まだわからなかった。


 だから、監視し続けなければならない。


 存在との約束を守るために。


 そして、二度とこんな悲劇を起こさせないために。


 神さまごっこは終わった。


 でも、私の戦いは始まったばかりだった。


 真の敵は、人間の心の闇だった。


 その闇と戦い続けることが、私の使命なのかもしれない。


 私は空を見上げた。


 朝日が昇ってきている。


 新しい一日の始まりだった。


 でも、失われた命は戻ってこない。


 伊織も、美羽も、その他大勢の人たちも。


 私は彼らの分まで生きなければならない。


 そして、彼らの死を無駄にしないために、戦い続けなければならない。


 たとえ一人になっても。


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