砂色

 次に猫と会ったのも、男との密会の時でした。ホテルのバーで一人で酒を飲んでいたところ、声をかけられました。上品に髭を刈り込んだ紳士然とした年上の男性でした。

 飲んでいたのは、仕事の憂さ晴らしといった意味合いが強かったので、その気はなかったのですが、話がうまかったため、一緒に夜を過ごすこともやぶさかではなくなり、上階にある彼の部屋に招待してもらいました。

 スイートルームでした。キングサイズのベッドがあり、ジャグジーがあり、ミニバーがあり、その豪華さに目を奪われました。彼がウイスキーの水割りを作ってくれました。喉を灼くほど強く、私が目を丸くしていると、彼はほほえみました。

 シャワーに行きたいという私のいう言葉も聞かず、彼は上背のあるその体で私を抱きすくめると、首元にそのとがった鼻先を埋めてきました。私たちは唇を重ねました。その後で、プリーツスカートのなかに彼の手が伸びてきました。


 その時です。

 にゃおーん。猫の長い鳴き声が部屋の中に響いてきました。

 私たちはあたりを見回しました。

「何もいない」

 こわばった顔で男が言いました。

 その鳴き声というのは、部屋の中から響いてきたように聞こえてきたようでした。しかも、その声の大きさというのも耳を打つような大きなものだったのです。

 私は、ベッドの下をのぞき、調度品の上に目をやりましたが、動物の姿は影も形も見当たりませんでした。

 首をひねりましたが、その後情事は再開されました。

 私たちを驚愕させたできごとは、二人での入浴を終えた後に起きました。


 先にシャワールームを出た男が悲鳴を上げました。その叫び方が尋常ではなかったので、バスタオルを取ると、私はベッドルームの方へと飛び出しました。

 男は、絨毯の上に裸の尻をつき、口をあんぐりとあげて、ベッドの方を指さしていました。その方に目を向けると、私も悲鳴を上げそうになりました。

 なんとそこには、猫がいたのです。ただの猫ではありません。大きさは仔牛ぐらいでした。それでも種類としては、毛並みや体つき、どれをとっても三毛猫としか言いようがありません。ただ、このような大きさとあれば、豹や山猫も同然ですから、本能的な恐怖心が頭をもたげました。


 ――にゃーお。

 私に向かって猫は鳴きました。体格の大きさゆえか、吠え声にも聞こえるくらいの声量でした。

 ですが、声色は甘く、瞳には優しい光が揺らめいていました。

 そこで気がつきました。

 信じられないくらい大きくなっていたことへの説明はつけようがありません。ですが、私の胸のうちには再会の喜びがあふれだし、すべての不可解なことは瑣末さまつなのだと思うようになりました。

「化け猫だ……」

 男は顔を青ざめさせました。

 その顔を見て、猫は笑ったように見えました。気のせいだったかもしれません。ただ、その口の両端がつり上がったように思われたのです。

「よしよし。ママですよ」

 バスタオル姿のまま、私は猫に抱きつきました。猫は喉を鳴らし、その巨体をベッドの上に横たえました。

 男はいつの間にか姿を消していました。手早く着替えて、荷物を抱えて、私に何度も『逃げよう』と語りかけてきましたが、私の注意がひたすら猫に向けられているので、諦めたようでした。


 二・三時間ほど眠った後でしょうか。ベッドを降りると、猫は窓辺に行き、夜闇へと視線を向けています。

「どうしたの? 外に出たいの?」

 私は問いかけました。

 窓を開いてやると、猫は身軽な動作で飛び上がり、窓の向こう――地上三階の部屋でしたが、そこから落ちても彼が無事なことは知っていました――へと飛び降りて行きました。

 ――きゃあ! 虎よ!

 外で悲鳴があがりました。誰かが目撃したのでしょう。

 窓の下を除くと、酔っ払った女性が腰を抜かしているのが見えました。付き添いの男性らしき人は助けおこしながら「そんなもの居るわけないだろ」と笑っていました。


 この頃からでしょうか。週末ごとの男あさりという私の悪癖は、落ち着きはじめました。私にとって男は重要ではなくなりました。その時自分では理由は分からなかったのですが、心が満たされ始めていたのです。

 ただ、長年続いた習慣というのはなくならないもので、繁華街で男と出合いを重ねるという行為を、以前より頻繁ではないにしろ、惰性で続けていました。

 そのせいで、あの恐ろしいできごとが起こりました。


 青前町のショッピングモールのある場所から山道の方へ行くと、一軒のラブホテルがありました。ある金曜日の夜、軽自動車で私は地下の駐車場に乗りつけ、マッチングアプリで知り合った男と待ち合わせました。

 その男は――後に偽名であることがわかるのですが――西村タイガと名乗っていました。ずっと星の話をしていました。星の並びがうんぬん、水瓶座時代の到来がうんぬん、私にはよく分からない話でした。

 どれだけ奇抜なことを話そうと、男が私に期待するのはたったひとつのことだけ。そう信じていました――この時までは。


「先にシャワーを浴びてほしい」

 サングラスに覆い隠された眼差しを私に向けて、西村タイガはそう言いました。荒く息をつき、上気した顔つきを見せていました。

「一緒には入らないの?」

 私がいうと、西村タイガは首を左右に振りました。

「星座の並びが悪い。一緒には入らない」

 この日利用したホテルのシャワールームは、ベッドルームとはすりガラス越しに隣り合っているので、誰かが入浴していれば、その様子はほぼ突き抜けになってしまいます。この人はきっとそういうのをながめていたいタイプなんだと割り切り、私は一人で体を洗っていました。


 すぐに、脱衣所の方から物音がしはじめました。なんだ、結局一緒に入浴するつもりなんだと思い、ドアを開けた彼を迎えた私ですが、そこで目にしたのはまだブルゾンにチノパンをまとった西村タイガの姿でした。

「脱がないんですか?」

 私はほほえみますが、片手に持ったナイフをギラつかせることで、西村タイガは私に応えました。西村タイガが先端を向けてきたそのナイフは、刃渡二十センチほど。サバイバル向けのいかついものでした。

「何をするつもりなの……!?」

 私の声に、西村タイガはニヤリと笑いました。


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