八百屋お七異聞 ~炎に誓う姉妹愛、八重の智恵、未来への灯火~
月影 流詩亜
第一章:天和の大火と運命の出会い
第一話:神田の八百屋、冬の朝
吐く息が白く染まる、天和元年の冬の朝。まだ薄暗い空の下、江戸神田の町は早くも人の気配でざわめき始めていた。
威勢の良い魚売りの声、豆腐屋の
神田多町の一角、八百屋「
「八重、大根はこっちだよ。 昨日仕入れたのは
威勢の良い声で指示を出すのは、この八百初の女将、お房だ。
年の頃は四十半ばを過ぎたあたりだろうか。働き者で、少しばかり口はきついが、情に厚い母である。 彼女は冷たい水で野菜を洗いながら、次々と娘たちに声をかける。
「はい、母上」
店の奥から現れたのは、次女の八重だった。
年は十六。 姉のお七ほどではないが、整った顔立ちをしており、何よりもその瞳には歳に似合わぬ落ち着きと聡明さが宿っている。
きびきびとした動きで母の指示に従い、大根を店の表に運び出す。
その手際は慣れたもので、野菜の扱いにも無駄がない。
「お七はまだかい? あの子はいつもこうだ。
朝一番の気働きが商売の肝だって、何度言ったら分かるんだろうねぇ」
お房が少しばかり眉をひそめる。
その視線の先は、まだ人気のない店の奥、姉妹の寝起きする部屋だ。
「姉さんは、昨夜遅くまで針子をしていたようですから。 少し寝坊したのかもしれません」
八重は姉をかばうように言った。言葉少なだが、その声には姉を思う優しさが滲んでいる。
お七は美しい。
透き通るような白い肌に、大きな黒い瞳。
笑うと花が咲いたように華やかで、道行く男たちが思わず振り返るほどの美貌の持ち主だった。
しかし、どこか夢見がちで、物事に熱中すると周りが見えなくなるきらいがあった。
やがて、少し寝乱れた髪を手櫛で整えながら、お七が姿を現した。 年は十八。
その姿は、朝の薄明りの中でも目を引くほど艶やかだった。
「おはようございます、母上、八重」
眠そうな目をこすりながら挨拶するお七に、お房はため息をつく。
「お七、お前ももう十八だろう。
いつまでも朝寝坊じゃ、嫁のもらい手もなくなるよ」
「もう、母上ったら。朝からそんなこと言わないでくださいな」
お七は頬を膨らませるが、その仕草もどこか愛らしい。
八重はそんな姉の姿に苦笑しつつ、黙々と開店準備を進める。 お七も手伝い始めるが、その手つきはどこか危なっかしく、時折八重がそっと手助けをする。
対照的な姉妹だったが、二人の仲は良かった。
八重は奔放な姉を時に心配しつつも、その華やかさに密かな憧れを抱き、お七はしっかり者の妹を頼りにしていた。
店先には、洗い上げられたばかりの野菜が次々と並べられていく。冬野菜の代表格である大根や
「そういえば、昨日の晩、向こうの
お房が、手を休めずに世間話を始めた。
客との会話の糸口にもなる町の噂話は、商売をする上で欠かせない情報源だ。
「ええ、聞きました。 空が少し赤らんでいたとか」と八重が応じる。
「このところ空気が乾燥しているから、火の元には気をつけないと」
「まったくだよ。暮れも押し迫ってくると、どうにもそわそわして火の不始末も増えるからねぇ。うちは大丈夫だろうけど、お互い気をつけないとね」
お房の言葉に、八重は小さく頷いた。
江戸の町は、常に火事の恐怖と隣り合わせだ。
木造家屋が密集し、一度火が出れば瞬く間に燃え広がる。 特に冬場は空気が乾燥し、火事が頻発する季節だった。八重の胸に、漠然とした不安がよぎる。
そんな会話をしていると、店の軒下に置かれた野菜屑の籠に、するりと一匹の猫が近づいてきた。
黒地に白い足袋を履いたような模様の、少し痩せた雄猫だ。
鋭い緑色の瞳でじっと八重を見つめている。近所では「にゃん太郎」と呼ばれている、この界隈のボス猫だった。
八重は母の目を盗むように、籠の隅に残っていた大根の葉先を少しちぎり、にゃん太郎の前にそっと置いた。にゃん太郎は警戒しながらも、八重の手からそれを咥えると、素早く路地の奥へと消えていく。八重だけが知る、ささやかな朝の交流だった。
この賢い猫は、どこか八重の気持ちを見透かしているような、不思議な雰囲気を持っていた。
「さあ、そろそろお客さんが見え始める頃だよ!二人とも、威勢よく頼むよ!」
お房の張りのある声が響き渡る。お七は「はーい」と間の抜けた返事をしながらも、美しい顔に愛想笑いを浮かべる準備をする。
八重は深呼吸を一つして、気持ちを切り替えた。
江戸の朝が、本格的に動き出す。威勢の良い掛け声、行き交う人々の喧騒、そしてどこからか漂ってくる朝餉の匂い。
八百初の店先にも、少しずつ客足が増え始めていた。
「いらっしゃいませ!今日の大根は上物だよ!」
「お安くしとくよ、奥さん!」
お房とお七の明るい声が響く中、八重は黙々と客の注文に応じ、銭の計算をする。
その冷静な仕事ぶりは、店の信用にも繋がっていた。
年の瀬を間近に控えた神田の町は、いつも以上の活気に満ちている。しかし、その賑わいの陰には、乾燥した冬の空気と、絶えない火事の噂が、まるで底流のように潜んでいることを、この時の八重はまだ漠然としか感じていなかった。
姉の奔放な美しさと、自らの堅実さ。対照的な姉妹の日常は、まだ穏やかに過ぎていた。
しかし、運命の歯車は、静かに、そして確実に回り始めようとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます