第4話
降りる駅に到着し、僕は小便で塗れた靴を光らせながら、ズボンの裾を黒く染めながら、降りて、公衆トイレに入り、洗面台で水を出し、ハンカチを濡らしてズボンを拭いた。そして、濡れた靴下を捨て、革靴を洗って、トイレを出た。
僕は濡れた片方の靴をぐちゅぐちゅ言わせながら歩いた。中学校に着くなり、僕は下駄箱で靴をはきかえ、ズボンを体操着のズボンと取り替え、席に着いた。帽子はかぶったままだった。僕は心が激しく動揺していた。朝からこんな日で、ツいていない。それに髪までもうないのだ。今日は運が悪い。何が起こるだろう。恐ろしいことが起こる気がして、友達のいない僕は暇な時間、本も読む気持ちになれず、焦燥でふるえる心を静めようと、机の上で腕を組み、その上に顔を伏せて、何もみないように、ただ怯えて耳だけそばだてていた。
ホームルームが始まった。担任教師の井上が来て、不快気に荒げた声で僕の名前を呼んだ。
「良之助、なんだその頭は。帽子は外でかぶるものだろう。教室では取りなさい」
みんなが振り返ってまで僕をみた。彼らは僕が青いキャップ帽をかぶっている姿を見た。僕は赤面し、帽子を静かに取った。みんなの目が大きく見開かれる。好奇の視線。面白そうに笑った口、嫉妬した男子の不機嫌にゆがめられた唇。一人の男子生徒は、僕が美しい顔なのに、帽子で顔を隠すなんて卑しいまねをしていたことに腹が立ったのか、「気取ってやがる」と忌々しそうに言った。彼の憎しみと軽蔑のこもった言葉が頭に反響して僕を苦しめた。
僕は見られないために帽子をかぶったんだ。でも逆に隠すのは厭らしかったのだろうか。隠しているものが醜いものであったなら、彼も何も言わなかっただろう。しかし、美しいものであった。それが為に、嫌みっぽく、僕は出し惜しみし、チラ見せし、みんなの気分をあおり立てていると勘違いされた。僕は自意識過剰だ。美しくて、何も困ったことはないのに、かくして、でも、僕は見られたくないのだ。じろじろと穴があくほど見られると、緊張して息ができなくなり、その場にいるのが窮屈で息苦しくなる。僕を不安な気持ちにさせる。僕は男子生徒の言った言葉を反復した。「気取ってやがる」確かに気取って見える。僕は恥ずかしくて自分が小さくなった気がした。だって、見られるのが嫌なんだ。と心の中で言う。僕はいい加減頭のてっぺんから首の下まで真っ赤になって、心の苦痛に顔をゆがめた。
「可愛い」と女生徒が言った。
赤くなって変な顔をしているのに、と僕は思った。嬉しいと言うよりも恥ずかしい気持ちが勝って、この場から逃げ出したかった。
「なんだ、良之助、髪切ったのか。すっきりしたな。こっちの方が似合ってるぞ」井上は騒ぎを面白がって、にこにこ笑って言った。
賞賛の声に混じる、軽蔑した男子の視線。
「いい気なもんだな」後ろから誰かに嫌みを言われた。
どきりと胸が鷲掴みにされたような衝撃、胃のあたりをざわざわと擽られる。背筋に冷水を垂らしたような悪寒が走り、足がふるえた。僕は指が白くなるほど拳を強く握りしめた。激しい怒りが僕の体を冷たくした。奥歯を食いしばると唇が戦慄いた。顔だけは逆に熱くて、のぼせてくる。ぐらんぐらんと視界が揺れる。めまいがした。吐く息が凍え、僕は両目を潤ませた。不安な気持ちが強い悲しみに似た落ち込みに変わった。僕はずんと心が押しつぶされる。
同級生の侮辱的な言葉が僕を追いつめる。確かに僕は余計なことをした。それが僕をやっかむ人の気持ちを煽った。彼らが僕を悪く言うのは僕が何かしたからだ。僕のせいなんだ。
自分がみっともなくて、恥ずかしくて、僕は、みんなの前から姿を消したくなった。今逃げよう、今逃げようと考え、席を立つ機会をうかがっていた。僕は体の強ばりを振り払うように、立ち上がる。
「どうした」
井上が顎を軽くあげ、不思議そうにめがねの奥の目を見開く。鋭く響いた井上の声に僕は内心、逃げようとする自分をとがめられたように思い、怖くなった。怯えたように僕は言った。
「気分が悪いので保健室へ行ってもいいですか」
井上は一瞬わからないというように首を傾げかけたが、それは気の迷いで、すぐにうなづいて、
「お、おう、いいぞ。行ってこい」と手首をしならせた。
「ありがとうございます」
僕は動揺し、泣きそうになった顔を伏せ、帽子と鞄を持って教室をでた。一人、廊下に立つと、胸に辛い痛みが走り、僕はほろりと涙がこぼれた。何も泣くことないじゃないか。そんなに嫌なのか。やるせない気持ちが僕に涙を流させた。僕は一人になりたくて、保健室に行くと言ったが、本当は行くつもりなどない。帰るつもりだった。
僕は帽子をかぶる。廊下の窓から外を見ると、雨でも降りそうな灰色に濁った空が広がっていた。ビル群が灰色の空を背景に伸びている。ビルの隙間から見える道路には渋滞した車が列をなして、赤いブレーキランプをともしている。
しんとした廊下にただ一人きりしかいないこの空間に虚無感を覚え、僕は長いため息をはいた。
下駄箱から僕はまたぐちゃぐちゃいう水気の含んだ靴をとりだし、はいた。それをはくと、汚い便所に片足を突っ込んだような不快感に襲われた。歯がかじかんで鳥肌が立った。他人の小便がまだ染み着いている気がして、僕は嫌で、苦い顔をした。
駅まで歩く途中、僕は、ふと、このまま家に帰ったら親に何か言われるだろうと考え、どこかで時間をつぶすことにした。本屋へでも行こうか。僕は住宅地の道路を通っていく。細い路地へ通じる十字路の片隅のゴミ捨て場にカラスが群がっていた。ゴミ袋をつつき、ゴミを引き出して散らかしている。僕は正義感に駆られ、走っていってカラスを追い払った。カラスは電柱に上って数羽で黒い群をなして僕を見下ろしている。そして、低い声で鳴いた。僕がいなくなったら、また直ぐにゴミを漁れるように待ってるのだ。カラスの睨みの利いた目が憎たらしくて、僕は怒ったように帽子を空に向かって、カラスのいる方へ投げた。驚いたカラスは次々に飛び去った。黒い鳥がいなくなったことに僕は安堵した。黒い色が僕を忌々しい気持ちにさせるのだ。それが無くなると、僕の心は澄み渡る青空のように綺麗に晴れた。
路地の奥を見ると、突き当たりの家の庭に、色とりどりの薔薇が沢山咲いていた。僕は美しいと思って、近くでみようと近づいた。そこは古い瓦屋根の日本家屋の庭だった。血のように赤黒い色の薔薇に、僕は生気を吸い取られそうになりながら、目を離せないで、魅了されていた。うっとりするほど美しい色。僕は手を伸ばして、薔薇の花びらに触れた。蝶の羽根のような柔らかい花びらは、強く触れると傷つきそうで、僕はなでるように触れた。
「盗らないで!」
突如聞こえてきた声に僕はぎょっとして、薔薇に刺されでもしたように、急いで手を引っ込めた。
鉄格子の向こうに見える家の障子と窓が開いていて、そこから一人の女が僕を睨みつけていた。黒く縮れた髪を後ろで高く結んで、赤いリボンで結わえてある。額を出し、眉毛の薄い、目の澄んだ美しい女で、黄色いトレーナーを着て、デニムの短パンをはいているが、両足が太股の途中で無くなっていた。彼女の異様な体に僕の視線は奪われた。初めて見る身体障害者に僕は言葉を失った。
「ずっと前から庭の薔薇を荒らしていたのあなたね」
「え」
女は軽蔑するように目を細め、僕を見据え、苛々した調子で当てつけるように皮肉っぽく言った。
だが、僕は何のことかさっぱりわからなかった。僕が庭荒らしの犯人にされようとしていると気づくや、むらむらと怒りがわいてきた。
「違いますよ」
「不審者! 気持ち悪い! 行って! 警察呼ぶよ。今度来たら……」
女は腕の力だけで体を移動させ、窓の外に降りると、外にある蛇口をひねり、ホースから水を出し、僕のいる方に浴びせた。
「消えて! 泥棒!」
怒ったように彼女は叫んだ。僕は逃げ出した。しかし、僕が何をしたというのだろう。薔薇に触れただけで、疑いをかけられ、侮辱され、水までかけられて、僕は腹が立った。女の顔を思い出すと、頭にかっと閃光がひらめいて、肩がわなわなと震え、唇が嫌みにひきつった。嫌いだ! 僕は思った。何だあの女、不具のくせに、不幸な女の特徴であるしおらしさなんて微塵もなくて、とんだヒステリー女!
僕は彼女が身体障害者であることから、彼女を普通の女の人よりも下の人間のように考えて、そんな気の毒な弱い人間に罵倒されたことにひどく気分を害された。僕は彼女を劣っている者と考えた。劣っている者は、優れた者の前でひれ伏しておどおど弱者らしくしているものだと思っていた。それがそうじゃなく、彼女は弱者じゃなく、強気で、勝ち気で、高圧的で、無い足の惨めさを忘れているようで、不思議だ。それよりか、彼女の荒々しい態度がしゃくに障った。僕はむしゃくしゃした。女の意地悪な口調が頭をよぎって、体が燃えた。女のくせに、不格好な傷もののくせに偉そうにふんぞり返って生意気だ! そうだ、僕は心で罵倒しながら、相手の一番深い傷を抉るようなことを考えて、優越感に浸っていたのだ。そして、傷ついた心の穴を埋めようとしていたのだ。
僕はどうしてもやり返してやりたくて仕方なかった。あの女を懲らしめてやりたい。僕はむしゃくしゃしていた。今日という日が僕を苦しめたことに復讐してやりたかった。僕は弱そうなあの女に何かしてやりたかった。あの女になら僕にだってどうこうできると思った。あいつが苦しむ顔がみたかった。僕は逃げて走った道を引き返し、また薔薇の庭にやってきた。皮肉な笑みをたたえた僕は、頭に悪魔が乗り移っていたとしか考えられない。僕は美しい薔薇に向かって、ズボンを下ろし、放尿した。窓の所にずっと居たのだろう。音で女が気づいた。
「お前、こら!」
女はものすごい勢いで外に飛び出した。僕は女を苦しめてやったという嬉しいおかしさと見つかった恐怖で興奮して怪しくにやけながら、慌てて尿を止め、しぶきを振り落とすと、ズボンをはいて、逃げようとした。女は庭の外にでる柵をあけた。僕は慌てたために、足がもつれ、転んだ。女は僕のズボンをひっつかんだ。
「汚い奴! この屑!」
女は白目を剥きだし、つばを飛ばして喚いた。
「こんなところでおしっこして! どうしてくれるの!」
「ごめんなさい」
僕は彼女の罵声に萎縮し、この恥ずかしい状態から逃げ出したくて謝った。
「いい気なもんね。帽子なんかかぶって顔かくして、顔見せなさい!」
さっきまでの怒りの勢いはどこへいったのだろう。僕は女に怯え、静かに胸をどきどきさせて、ふるえすらしていた。女が叫ぶと人がきそうで、人から見られるのが嫌で、僕は女をあまりしゃべらせないようにしようと、すんなり言うことを聞いて帽子を取った。女は僕の美しい顔を見た。じろりと嘗めるように僕の頬にしせんを滑らせ、僕の目を射抜いた。彼女は僕のズボンを握る手に力を込めた。僕は彼女の側に引き寄せられるのを感じた。
「始末をつけてくれるんでしょうね?」
「え? どうやってですか」
「来なさい」
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