第18話:無名顕現、記名の誓約

黒い霧が渦巻く。

空間の輪郭が崩れ、時の流れすら撹拌かくはんされるような重圧。

《名無し》――名を滅する存在は、もはや人の形すらとどめていなかった。


その中心に、無音の“目”が浮かぶ。

それは、空を見ているようであり、誰かの心の奥を覗くようでもあった。


「……聞こえない。声が……届かない……」


九重紗雪ここのえさゆきは口を開くが、言葉が音にならない。

否、それは“発せられたはずの名前”が、発音される直前に霧散むさんするからだった。


神明隼人じんめいはやとは彼女の前に立ち、短刀を構えるが、全身が軋みを上げていた。


「ダメだ……。意識を向けただけで、思考が喰われる……!」


《名無し》の第三の相――“名を滅するもの”は、存在そのものを認識から消す力を持つ。


だが――


「真観さっ……!」


紗雪が叫ぶ。かろうじて発せられた音は、破片のように空間に引き裂かれながら、

それでも一人の僧侶へと届いた。


浦見真観うらみしんかん――その身に仏法を宿す者。

彼は祠の中央にひざまずき、静かに五鈷杵ごこしょを掲げていた。


「……顕現けんげんせよ、名を繋ぐもの。ここに“記名”を以て、無名を討つ。」


「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン」


その瞬間、彼の背後に現れたのは、無数の**梵字**の光。

光明真言の梵字が円環となって彼を守る。


「言葉を封じる神には、“形”を以て挑むのが仏法。

真言が通じぬならば、わたしが君に、“名前”を与えよう」


「……名前……?」


「そう。彼女の名を、もう一度、記すのだ」


真観は五鈷杵を地に突き立て、声を上げた。


「――仏前にたてまつる名、一字一音、心に刻まれしえにしの証――!」


梵字が弾ける。

今、やつに真言は通じない。だが、仏は“想い”と“象徴”に応える。


紗雪の懐にあった御守りが、光を放った。

赤と白の縞模様、その中に記された縷々の名前が、光に包まれて浮かび上がる。


天神縷々てんじんるる


その瞬間、《名無し》の中心にあった無音の“目”が揺らぐ。


「……これは……! 効果が……ある!」


神明隼人が叫ぶ。

真観が続けて五鈷杵を回しながら、さらに一手を打つ。


「紗雪君……彼女を呼べ!

記憶の中の、最も鮮烈な“名”を!」


紗雪は震える手で、胸に手を当てた。


――縷々。わたしの、親友。

――あのとき、屋上で、笑ってた。

――一緒にお昼を食べて、夢の話をして、

――誰にも言えない秘密を、分け合った。


「……る……」


声が擦れる。


「るるっ……! 縷々ぃっ!!」


御守りが炸裂するように光を放ち、《名無し》の身を穿うがつ。


黒霧の中、微かに“少女の影”が揺れた。


「……う、……ん……」


誰かの“返事”が、そこにあった。


「来いっ……! ここに戻って来い、縷々……!」


記名法印の術式が完成する。


真観の声が境界を打ち破るように響いた。


「顕現せよ――天神縷々!

記名は祈り、名は魂の呼び名なり!」


空間が、砕けた。


《名無し》の本体が悲鳴のように黒い霧を撒き散らし、周囲を侵食していた構造そのものが崩壊していく。


そこに、ひとつの影が、紗雪の腕の中へと落ちた。


「……る、る……っ!」


気を失ったままの縷々。だがその顔は、確かに彼女の“名前”を取り戻していた。


そして、《名無し》は、名を失った存在として、沈黙の霧の彼方へと消え去った。


「これで……一つの終わりか」


真観が五鈷杵を下ろし、深く息を吐いた。


紗雪の頬に、涙が流れていた。


「……ありがとう、真観さん……そして……縷々」


神明隼人が剣を納め、静かに言う。


「だが――まだ終わってはいない。

“名を奪う”怪異の、本体は……未だ、この地の奥底にいる」


真観がうなずく。


「“名前”を喰らう神格。

その根源、“夢の胎”を巡る戦いが、ここから始まる――」


少女は名を取り戻した。

だが、名を喰らう神は、未だこの世界に潜んでいる。

そして“夢”の本質が、徐々に露わになろうとしていた。

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