第16話
6
望んではならない。欲してはならない。だから僕は捨てたのだ。
あの頃に抱いていた思いを。そしてあの頃に目指していた夢を。
◇ ◇ ◇ ◇
―――今日はとことん運がなかった。
放課後の教室。俺は夕焼けに染まる黒板を見ながらふと今日の出来事を思い浮かべた。
朝。木葉と揃って寝坊してしまい、待ってくれていたさくらと一緒に学校を遅刻してしまった。そして、寝坊したせいで当然のように弁当はなく、図ったかのように財布を忘れてしまった。更に、丁度俺が日直当番の日に限って、もう一人の当番が風邪で休んでしまい、その所為で今現在、日誌の作成に追われている。
日誌を書くだけなら、たいして時間もかからなかっただろうがそれに加えて、なぜか、クラス委員の仕事を手伝わされた。
なぜ俺が日直の日に限って面倒なことばかりが続くのだろうか。
「さてと、これで終わり……」
俺はやっと書きあがった日誌を手に取り、教室を出ようと立ち上がった。それと同時に教室の扉を開いた。
「あっ、よかった。まだいた」
扉を開いたのは木葉だった。木葉は安堵のため息を漏らし、何か遠慮しがちに教室に入ってきた。
「どうしたんだ? 部活の方は終わったのか?」
「うん、今終わったところ」
木葉の指先をよく見ると絵具の痕が残っていた。袖口も少し汚れている。部活が終わってすぐにこっちに来たのだろう。それほど大切な用事ということか。
「で、何の用なんだ?」
「あたし、今日は友達のところに泊まりに行くから。ごはん適当に食べて帰ってね」
「―――は?」
こいつはいきなり何を言い出すんだ。
「だから、今日は友達のとこに泊まるって言ってるの。ごはん作る余裕無いから、兄ちゃんは適当になんか食べといてってこと」
「おまえ、明日学校はどうするんだよ」
俺の言葉を聞いて、木葉はむっと唇を尖らせた。
「それは私もこの間言ったよね? ――――兄ちゃんだって泊まりに行ったんだから、私だって泊まりに行ってもいいよね?」
「う……」
それとこれとは話が違う。が、そんなこと口に出せるわけでもなく俺は溜め息をこぼした。
「誰の家に泊まりに行くんだ?」
「あ、行ってもいいんだ」
上目使いに木葉は笑みを浮かべた。
「今回だけだぞ。これっきりだからな」
「わかってるよ。兄ちゃんも、あれっきりだからね!」
木葉は片目をぱちりと閉じてみせた。――――男の家じゃないだろうな。それが少し心配だったが、追求はしなかった。
「夜遊びするんじゃないぞ。最近は危ないんだからな」
くすくす笑いながら木葉は答えた。
「兄ちゃんなんだかお父さんみたいだね。大丈夫だよ。遅くには出かけないからさ」
「変なやつに声かけられてもついていくなよ」
「まったく、心配性だなぁ。兄ちゃんは」
そんな風に言いながらも木葉ははにかんで笑む。
「まぁ、気を付けはするよ。―――それじゃ、あたしはまだ片付けとか残ってるから」
「おう、気をつけてな」
木葉は大急ぎで教室を後にした。外を見てみるとすでに日は落ちていた。
「どうしようか……。暗くなっちまったな」
夜になれば怪物が出る。さくらはもう帰っただろうか。俺はさくらを探しに陸上部の部室の方に向かった。
運動部の部室は体育館の傍に並んで立てられている。高校は二つの校舎が建っており、普通科の校舎にあたる一号館。美術科の校舎にあたる二号館。そしてその他に体育館。その横に柔道場や弓道場など、様々な施設が建っている。グラウンドも二つあり、その一つは陸上競技場になっている。
俺の教室があるのが一号館で、木葉は美術科なので二号館に通っている。その一号館と二号館をはさむように体育館が建っており、その傍の小さな建物が運動部の部室になるわけだ。
部室に向かって歩いているとロッカー棟でお目当てのさくらに出会った。
「あれ、春くんまだいたんだ。―――あっ、日誌書いてたの? いままで?」
驚いた様子でさくらが言った。俺が今までいるとは思っていなかったからだろう。
「なんか委員の仕事も手伝わされた。それで遅くなったんだよ」
「じゃあ、今帰りなんだ」
さくらの顔がなんだか明るくなってきた気がした。
「あ、もしかして霧島さんと待ち合わせてたりする?」
さくらが少し眉を寄せて言った。なんでここで霧島の名前が出てくるのか。霧島の名を聞いてぎゅっと心臓が縮まった気がした。
「してないって」
「――最近、よく一緒にいるよね」
伏し目がちにさくらは俯いて言った。そう言えばここのところあまり元気がない。思いあたる理由はあるが、俺もそこまで自意識過剰ではない。だが……。
「あ、気にしないで。別に割って入ろうってわけじゃないから」
黙ったままの俺に、さくらは慌てて言った。視線を俺になるたけ合わせないようにしているのか、目が泳いでいる。
「霧島さんと話してるのって、春くんだけだからさ。――ちょっと気になっただけなの」
「――さくら」
胸が痛んだ。遠い日、一緒に街を駆けたさくらを、俺は裏切るしかできないのだろうか。
「俺は、霧島のことが好きなんだと思う。一緒にいたいと思うし、助けになりたい。だから……」
「――うん」
さくらは俯いて、一度だけ小さく頷いた。
「わかってる。――わかってた。そうだろうなって思ってた」
さくらは顔を上げてにっこりと笑ってみせた。今にも崩れそうな危うい笑顔だった。
「大丈夫だよ。私は昔ほど弱くないから。――ただずっと引き摺ってただけ。十年前からずっと引き摺ってただけなの」
――それがはっきりとしただけ。さくらはそう言って、頭の後ろを掻いた。
「――こんなところで振られちゃうなんて。もうちょっと雰囲気作ってよね」
さくらは笑んだ。それがやけに俺の胸を刺した。さくらはくるりと振り返って、背を向けて言った。
「春くん、もし何かあったときは霧島さんのことを一番に考えてあげて。ちゃんと霧島さんを選んであげてね」
――じゃあ、またね。
さくらはそう言い残して、その場を去った。俺は遠ざかって行くさくらの背をじっと見つめていた。
さくらは泣くだろうか。
気持ちに気付いていながら、俺は傷つけるだけで何もしてやれなかった。俺たちはこれからどうなっていくんだろう。今まで通りでいられるのだろうか。
「――澤見さん?」
背中から声をかけられ、振りかえると、そこに霧島が立っていた。
「澤見さん。こんな時間まで学校に残っていたのですか?」
霧島は不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。
「っていうか、おまえこそなんでこんな時間まで学校にいるんだよ」
「特に何をしていたというわけではないのですが、帰っても何もすることがないので校内を見て廻っていたんです」
「………」
俺は言葉を失った。そんな様子を霧島は首を傾げて見つめていた。
もしかしたら、俺が帰るのを見張って、待っていたのかもしれない。
「今、帰りですか?」
「あ、あぁ……」
さくらの背中が頭に浮かんだ。心がざわめく。罪悪感が胸を締め付けた。
俺たちはどちらが言うでもなく、ロッカーへと足を向けた。
校舎を出てしばらく、俺たちは一言も喋らなかった。霧島も俺の雰囲気を察してか、静かに並んで歩いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます