第13話(木葉視点)


  5


 轢かれそうな兄ちゃん。

 迫ってくるトラックが、あたしの目にはただゆっくりと映っていた。世界が白黒反転させて、あたしの心を乱していた。

 ただ叫んで、名を呼んだ。

 そして、お姉ちゃんが兄ちゃんを押した。

 空を見る、跳ね飛ばされた朔夜姉ちゃん。

 歩み寄る兄ちゃんが血だらけの姉ちゃんの手をそっと握った。


 ◇ ◇ ◇ ◇


 部活の終わり、美術部の部長の頼みで、あたしは一人、職員室へと文化祭の申請書を届けに行った帰りだった。外はもう夕暮れで、朱色の光が窓から入り、廊下を照らしていた。

 ぱちり、と瞬きをして、記憶に刻む。色んな夕日の記憶があたしの頭の中で混ざり合って、またいつか、突然の衝動に任せて、夕日を描くんだろう。そう思う。


 高校生活に、随分慣れてきた頃だった。兄ちゃんも言っていたけど、ここはのんびりとしていていいな、と思う。必死に勉強して、合格した東京の美術学校を思い返して、もったいないと少しは思うけど、でもたぶん、どこへ行ったって、あたしは変わらず絵を描いていたんだろうな、と思う。


 もうすぐ、この街に来て一つ目の絵が描きあがる。かかる時間もいつもと驚くほど変わらなかった。自分の神経の図太さに思わず目を見張る。


 あたしの心はたぶん、どこかおかしいんだと思う。

 絵に狂ってると、昔誰かに言われた。確か中学の時の先輩だ。

 中学二年生の夏。兄ちゃんとの関係が朔夜お姉ちゃんのおかげでだんだんと修復されていっていた頃のこと。

 今でこそ仲の良い兄妹であるあたしたちは、あの頃、言葉を交わすこともままならないほど、険悪な関係だった。


 小学校低学年の頃は、あたしも兄ちゃんも一緒に絵を描いて、お互い見せ合って、お互いを刺激しあって楽しんで絵を描いていた。

 いつかの発表会のとき、あたしの絵が金賞を取ったときがあった。

 兄ちゃんは笑って、「やったな」と褒めてくれた。


 あたしはその頃、兄ちゃんだけに褒められたくって絵を描いていたと思う。大好きな兄ちゃんが、あたしの絵を見て、あたしの頭を撫でて。それがあたしの幸せだった。

 その頃のあたしは、どうしてそんなに兄ちゃんに褒められたかったのか知らずにいた。

 そして、僅かな歪みが生まれたのが、その時の絵画の先生の言葉だった。


 知らないおじさんは、あたしの絵を褒めた。褒められるのは嫌いじゃないあたしは、その先生の言葉を聞いていた。兄ちゃんも、一緒になってあたしの絵を、いいねって言ってくれた。

 その先生は、その後、兄ちゃんの絵と、あたしの絵を比較して話を始めた。


 そのまま先生は兄ちゃんの絵の、お父さんに似ている部分、あたしより劣っているという部分を上げていき、もっと絵を勉強しなさいと言った。

 兄ちゃんの描いた、花の絵は、あたしにはとてもきれいに映っていた。だけど周りの人たちはそうじゃなかった。


 それから兄ちゃんの絵は少しずつ変わっていった。あたしにだけ、兄ちゃんの絵に、変な鎖が見えるような気がしていた。兄ちゃんを縛る、言葉の鎖。


 そして、兄ちゃんはあたしの絵を見なくなった。

 そして、あたしを見なくなった。


 馬鹿だったあたしは、もっと上手に描かなくっちゃ兄ちゃんは見てくれないんだって思って、兄ちゃんよりもたくさん、たくさん絵を描いた。描いた絵は兄ちゃん以外の人が褒めて、たくさん賞をくれた。

 ある日、自分の絵を兄ちゃんは真っ黒に塗りつぶして、筆を折って床に投げつけた。


(――おまえがいなけりゃよかったのに)


 悲鳴に近い声をあたしに刺して、兄ちゃんは部屋に閉じこもった。兄ちゃんの部屋の前には、今まで書いた絵が破り捨てられて積まれていた。

 それからどこに引っ越しても、兄ちゃんは部屋を出なくなった。食事の時もあたしが部屋に戻るまで、決して下りてこようとはしなかった。

 一年間あたし達は話をしなくなった。それは東京に移っても変わらず、あたしはそれでも変わらずに絵を描き続けた。


 兄ちゃんを壊したのはあたしだと思った。それでもあたしは絵を描く以外のことでしか何かを表現する事ができずにいた。ただ描いて、描いて、破られてもいいから、いつか兄ちゃんに見てもらおうと思っていた。

 その頃からあたしは作品を発表会に出さなくなり、静かに一人で、絵を描き続けた。


 そんなあたしたちの間に入ってきたのが、朔夜お姉ちゃんだった。

 誰も入れさせなかったドアを無理やり壊して開けて、がつんと兄ちゃんの頭を叩いて叱った。


(わかりにくく頑張っちゃダメじゃない!)


 お父さんも、お母さんもあたしも朔夜さんの言葉の意味が分からなかった。


(――何で自分の筆を折ったのか、これじゃあ誰にも伝わらないじゃない)


 そう言って、兄ちゃんを抱きしめたとき、ようやくあたしに兄ちゃんのしていることの意味が分かった。

 避けられている間、ずっとあたしを憎んでいるのだと思っていた。あたしが兄ちゃんを追い込んでしまったのだと思っていた。


 あたしを憎んでいるなら、あたしの筆を片っ端から折ってしまえばよかった。あたしを憎んでいるなら、あたしの絵を破ればよかった。あたしを憎んでいるなら、あたしに筆を投げつければよかった。

 だけど兄ちゃんはそうしなかった。


(あのまま絵を描き続けてたら、きっと木葉を嫌いになってしまうと思ったんだ……)


 泣きながら、朔夜さんの胸の中で兄ちゃんが言った。


(だから、全部捨ててしまおうって思ったんだ。この醜い気持ちも、何もかも全部。そうしたらまた木葉と向き合えるって、そう思って……)


 あたしも泣いていた。兄ちゃんの傍によって、二人の傍に座って泣いた。一年ぶりに、兄ちゃんはあたしの頭を撫でてくれた。


(ごめんな……)


 そんな事があって、あたしと兄ちゃんの間はほんの少しずつだけど元に戻っていった。朔夜さんはあたしと兄ちゃんと一緒にそのことを喜んでくれた。


 それからしばらくして、朔夜さんが亡くなった。

 トラックに轢かれそうになった兄ちゃんを庇って死んだ。あっけなく、血まみれになって死んだ。

 それでもあたしは変わらずその日も絵を描き続けた。悲しくって、苦しくって、その気持ちを絵にぶつけた。


 そうしたら、先輩に狂っていると言われた。言われて初めて、そうなのかも、と思ってしまった。流れ込んでくる感情が、とめどなく絵になって流れていく感覚をあたしはどこかで楽しんでいたのかもしれないと、その時初めて気付いた。


 姉ちゃんが死んでから、あたしの中に、たくさんの気持ちが流れてくるような感覚が多くなった。相手の考えてることが、表層だけ伝わってくるような、そんな感覚。あたしはそれをいつも絵の中に混ぜてしまう。混ぜて、混濁する心を発散させていった。


 だから今もあたしは絵を描き続けている。壊れても、狂っても、決して誰にも分からないようにひっそりと、描き続ける。

 文化祭の展示用にも、絵を描かなくちゃいけないな、と外の風景を眺めながら思う。何の絵になるか、今はまだわからない。

 夕暮れが、だんだんと黒を混ぜて、夜に変わり始めている。星は、まだ出ていない。


「――なんなんだろ」


 あたしは、意味の無い言葉と一緒にため息をついた。

 最近、兄ちゃんはあたしに隠し事をしていると思う。何かとても大切な事を隠しているような気がする。

 そんな感覚が、兄ちゃんから流れ込んできて、あたしはここに来てから不安でしょうがない。


 ロッカー棟で靴を履き替え、上履きをきっちりそろえて、ロッカーを閉めた。流れ込んでくる夕焼けは、光を随分と弱くしていて、どこか心細い。

 その、校舎から出たところで、あたしは兄ちゃんの後姿を見つけた。その隣には、あたしの知らない人が立っていた。

 髪を後ろに二つくくりした、少しきつそうな目つきの人。剣道部なのか、長細い棒状の布袋を持っている。


「――兄ちゃん」


 声を掛けると、二人がそろって振り返った。その拍子に、布袋についた桜の花びらを模した鈴がりんと鳴った。

 こんな風に、学校でも気軽に声を掛けられるあたしは、ブラコンなんだなぁ、と思う。兄ちゃんがいない風景を想像出来ないし、したくないと思う。


「なんだ、木葉。今帰りか?」


 兄ちゃんも兄ちゃんで、なんだかんだ言っても、あたしを邪険にしないから、シスコンに近いと思う。


「うん。……えっと、その人は?」


 隣に立つ人を、あたしはまじまじ眺めると、どこか気まずそうに、二人は顔を見合わせ、俯く。怪しい、と思う。


「こいつは同じクラスの霧島。ちょっと帰りが一緒になってさ」

「――ふぅーん」


 まとっている雰囲気はまるで違うけれど、顔はどことなく、朔夜お姉ちゃんに似ているような気がする。じっと見つめると、霧島さんはどこか申し訳なさそうに眉をひそめて、あたしから視線を逸らす。


「これはうちの妹の木葉」


 ――これ扱いですか。あたし。と心で呟き、兄ちゃんと霧島さんを見比べる。悔しいけど、並んで立つ姿が、どこかさまになっている。


「こんにちは。木葉さん」

「はい、こんにちは」


 ぷいっとあたしは答えて顔を逸らす。あまり馴れ馴れしくされたくない。


「兄ちゃん、何でこんな時間まで残ってんのさ」

「いや、少し霧島と話してたら遅くなってさ。なぁ、霧島?」


 目を泳がせて、兄ちゃんが目で霧島さんに合図を送る。そんなしぐさひとつひとつがあたしの勘に触る事も、兄ちゃんは気付かない。


「え、あ、はい。少し長く話をしすぎました」

「ふぅーん。そうなんだ。こんな時間までねぇー」


 もう夜になるじゃない。そう思って、視線を泳がすと、あたしの目に、さくらさんの姿が映った。

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