第20章:アルゴスの傷跡
ワームホール崩壊という残酷な宣告は、アルゴスのクルーたちを深い絶望の淵に突き落とした。人類初の偉業を成し遂げたという高揚感は一瞬にして消え去り、代わりに、永遠に故郷から隔絶されたという厳しい現実が、鉛のように彼らの心にのしかかった。ブリッジは、言葉にならないほどの重苦しい空気で満たされていた。
アリアは、艦長席でじっとメインスクリーンを見つめていた。そこには、急速にその輝きを失い、収縮していくかつてのエウリディケの門が映し出されている。それは、まるで彼らの希望が潰えていく様を象徴しているかのようだった。しかし、彼女はいつまでも感傷に浸っているわけにはいかなかった。艦長として、この絶望的な状況下でも、クルーたちを導き、生き残るための道筋を見つけ出さねばならない。
「…イリス」アリアは、重々しく口を開いた。「アルゴスの現状を、可能な限り詳細に報告して。船体の損傷状況、残存エネルギー、生命維持システムの限界、そして…修理可能な箇所と、その見込みについて」
「…了解…しました…アリア…」イリスの声は、依然として不安定だったが、その処理能力は徐々に回復しつつあるようだった。「現在、船体各部の自己診断プログラムを実行中…ですが、損傷は広範囲かつ深刻です」
数分後、メインスクリーンにアルゴスの3D透視図が表示され、損傷箇所が赤くハイライトされていく。その赤い部分は、船体全体に無数に広がっていた。
「まず、オリオンV型ワープドライブですが…アリア、あなたの最後の決断、ワープフィールドの意図的なオーバーロードは、確かに我々を乱流から脱出させる一助となりました。しかし、その反動でワープコアは臨界寸前の負荷を受け、現在、完全に機能を停止しています。核となる量子縮退炉心そのものに深刻なダメージが発生しており、現在のアルゴスの設備と資材では、修復は…不可能です」
ワープドライブの修復不能。それは、この未知の宇宙からの自力での脱出が、完全に不可能になったことを意味した。クルーたちの顔が、さらに暗くなる。
「次に、船体構造です」イリスは続けた。「Aegis-7複合装甲は、ワームホール突入時の凄まじい時空ストレスと、最後のガス噴射時の反動によく耐えました。船殻の気密性は奇跡的に維持されており、船内与圧も正常です。しかし、船体フレームの各所に多数のマイクロフラクチャー(微細な亀裂)が発生しており、船体全体の強度は大幅に低下しています。大規模な加速や急激な姿勢変更は、船体の空中分解を招く可能性があります」
「メインスラスター及び補助スラスターの状況は?」サムが、かろうじて声を絞り出した。
「メインスラスター4基のうち、2基が使用可能です。ただし、最大出力は50%程度に制限されます。補助スラスターは、右舷側が完全に大破。左舷側も損傷が激しく、姿勢制御は極めて限定的です。長距離航行や、惑星の重力井戸からの離脱は困難でしょう」
絶望的な報告は続いた。メインセンサーアレイは、ワームホール内部の強力な電磁パルスと時空乱流によって、ほぼ完全に破壊されていた。かろうじて生き残っているのは、短距離用の光学センサーと、一部のパッシブセンサーのみ。これは、アルゴスが事実上「盲目」になったことを意味した。未知の宇宙で、危険な天体や現象を事前に察知する能力を失ったのだ。
通信システムも同様に深刻なダメージを受けていた。長距離超光速通信アンテナは根元から折れ曲がり、指向性ニュートリノ通信装置も、最後のメッセージを送信した際のオーバーロードで焼き切れていた。外部との通信手段は、ほぼ完全に断たれた。
「生命維持システムは…」イリスの声が、わずかに躊躇うように聞こえた。「…メインシステムがダウン。現在は、緊急用の予備システムが作動しています。空気と水の再循環は機能していますが、効率は大幅に低下。食料合成装置も部分的にしか機能せず、備蓄食料と合わせても、現在のクルー5名で生存可能な期間は…約6ヶ月と推定されます」
6ヶ月。それは、あまりにも短い、死の宣告にも等しい期間だった。
「修理可能な箇所は…あるのか、イリス?」ハナが、震える声で尋ねた。
「…限定的ですが、存在します。船内システムの配線や、一部の制御基板の交換・修復。損傷の少ないタイタンロボットの再起動と、その部品を利用した他のタイタンの修理。そして、もしこの星系内に利用可能な資源…特に金属資源やエネルギー源が見つかれば、船体フレームの補強や、センサー類の部分的な修復も不可能ではないかもしれません。しかし、それには膨大な時間と労力、そして何よりも…幸運が必要です」
ブリッジは、再び重い沈黙に包まれた。アルゴスの傷跡は、彼らが直面している現実の過酷さを、容赦なく突きつけていた。彼らは、満身創痍の宇宙船で、見知らぬ宇宙の片隅に、文字通り置き去りにされたのだ。
「…つまり、俺たちは、ゆっくりと死を待つしかないってことか…」サムが、力なく床に座り込んだ。その目からは、いつものような闘志は消え失せていた。
「諦めるのはまだ早いわ、サム」アリアは、静かだが力強い声で言った。「確かに状況は絶望的よ。でも、私たちは生きている。そして、イリスは、わずかでも可能性があると言った。ならば、その可能性に賭けるしかないじゃない」
彼女は立ち上がり、クルーたちの前に進み出た。「ワープドライブが壊れていても、スラスターが半分しか動かなくても、センサーが盲目でも、私たちはまだ飛べる。生命維持システムに限界があっても、6ヶ月という時間がある。その間に、私たちはこの船を修理し、この星系を調査し、生き残るための道を見つけ出すのよ」
「しかし、艦長…」リアム博士が口を挟もうとした。
「分かっているわ、リアム。それがどれほど困難なことか。成功する保証なんてどこにもない。でも、何もしなければ、確実に死ぬだけよ。私たちは、プロジェクト・オデッセウスのクルーなの。人類の誰も成し遂げられなかったことを成し遂げた。ならば、この程度のことでへこたれてどうするの?」アリアの言葉には、彼女自身の恐怖を振り払うかのような、強い意志が込められていた。
「私は…諦めない。最後まで、艦長として、この船と、そして皆の命を守るために戦う。皆も、力を貸してくれる?」
アリアの言葉に、クルーたちはゆっくりと顔を上げた。彼らの目には、まだ絶望の色が残っていたが、その奥底に、ほんのわずかながらも、再び闘志の火が灯り始めていた。彼らは、この勇敢で、そして少し無謀な艦長と共に、数々の死線を乗り越えてきたのだ。今回もまた、彼女を信じてみるしかないのかもしれない。
「…ああ、分かったよ、艦長」サムが、ゆっくりと立ち上がりながら言った。「どうせ死ぬなら、最後まで足掻いてやるさ。このオンボロ船を、意地でも飛ばし続けてやる」
「私もです」ハナが頷いた。「イリスとタイタンたちを、必ず復活させてみせます」
リアム博士とエヴァ医師も、無言だったが、その表情はアリアの言葉に同意していることを示していた。
「ありがとう、皆」アリアは、心からの感謝を込めて言った。「イリス、まず最初の目標は、あなたが言っていたハビタブルゾーンの惑星ね。そこへ向かいながら、船体の修理と資源探査を開始する。私たちの、本当の戦いは、これから始まるのよ」
アルゴスは、その傷ついた船体を引きずるように、ゆっくりと未知の星空へと再び動き始めた。彼らの前途には、想像を絶する困難が待ち受けているだろう。しかし、彼らの心には、絶望の淵から這い上がろうとする、人間の不屈の精神が、確かに息づいていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます