第16章:沈黙の訪れ
アリアの脳裏に閃いたのは、あまりにも荒唐無稽で、博打と呼ぶのも憚られるようなアイデアだった。それは、プロジェクト・オデッセウスの計画段階で、万が一ワープドライブが使用不能になった場合の緊急離脱シナリオとして、ごく僅かながら検討されたものの、あまりの危険性と不確実性から即座に却下された「最終手段」の一つだった。
「サム!」アリアは、艦長席から身を乗り出すようにして叫んだ。「船内の消火システム! 高圧ガスリザーバーの残量はどれくらいある!?」
「消火システムだと? 艦長、今そんな場合じゃ…!」サムは怪訝な顔をしたが、アリアの真剣な眼差しに何かを感じ取ったのか、慌ててコンソールを操作した。「…予備タンクを含めて、まだかなりの量が残ってる。だが、一体何をする気だ?」
「アルゴスの船尾には、緊急用のガス放出ノズルがいくつか設置されているはずよ。本来は、船内火災で発生した有毒ガスを急速に船外へ排出したり、あるいは微調整用のスラスターとして使われるものだけど…」アリアは言葉を続けた。「もし、あれらのノズルから高圧ガスを一気に、指向性を持って噴射できれば…ほんのわずかかもしれないけれど、推進力が得られるかもしれない!」
ブリッジのクルーたちは、アリアの言葉に一瞬呆気にとられた。それは、巨大な宇宙船を、まるで消火器のガスで動かそうというような、あまりにも原始的で無謀な発想だったからだ。
「艦長、本気ですか!?」ハナが信じられないというように声を上げた。「あのノズルの推力は微々たるものです! しかも、今のこの状況で、正確な方向制御など…!」
「しかし、ゼロよりはマシでしょう!」リアム博士が、アリアの意図を察して叫んだ。「もし、イリスが予測する収束点の中心、あるいはその僅かな『弱点』に向けて、瞬間的にでも推力を与えることができれば、この最悪の渦から抜け出せる可能性が…ないとは言い切れない!」
「イリス!」アリアは、脳内インプラントを通じてイリスに呼びかけた。「あなたの計算能力で、ガス放出ノズルの最大推力と、収束点の構造を分析して、最適な噴射タイミングと方向を割り出せる!? 残された思考リソースで構わない!」
「…アリア…その…アイデアは…極めて…危険…です…船体への…反動…予測…不能…しかし…他に…選択肢…が…ない…と…判断…計算…開始…し…ます…」イリスの声は、依然として途切れがちだったが、その中には明確な意志が感じられた。
サムとハナは、アリアの決断の速さと、その常識外れの発想に驚きながらも、すぐさま行動を開始した。サムは機関室へ走り、ガスリザーバーの圧力を最大まで高め、放出ノズルの手動制御回路をチェックした。ハナは、ブリッジのサブコンソールで、船体の姿勢制御システムとノズル制御を同期させるための応急的なプログラムを猛スピードで書き始めた。
船体が収束点に近づくにつれて、振動はますます激しくなり、船内には金属が軋む耳障りな音が響き渡っていた。舷窓の外は、もはや光と闇が入り混じる混沌とした渦としか表現できない。
「艦長! ガス圧、最大! いつでも噴射できます!」サムからの報告。
「ノズル制御、ブリッジと同期完了! ただし、本当に微調整しかできません!」ハナも続けた。
「イリス! 計算結果は!?」
「…出ました…アリア…収束点…の…中心は…おそらく…ブラックホール…様の…時空特異点…です…しかし…その…周囲…に…エネルギー…の…薄い…層…が…形成…されて…います…そこを…狙って…船尾…第3…及び…第4…ノズルから…最大出力で…5秒間…噴射…すれば…あるいは…この…重力井戸…を…振り切れる…可能性…が…3.7%…」
3.7%。それは、絶望的な数値だった。しかし、今の彼らにとって、それは唯一残された希望の糸でもあった。
「3.7%…上等じゃないの」アリアは、乾いた唇を舐めた。「皆、最後の賭けよ。シートに体を固定して! 噴射の衝撃は凄まじいはずだから!」
クルーたちは、再びシートベルトを締め直し、衝撃に備えた。エヴァ医師は、目を閉じて静かに祈りを捧げているようだった。
「イリス、噴射タイミングのカウントダウンを!」
「…了解…目標ポイント…到達まで…Tマイナス…15秒…」
アリアは、ブリッジのメインコンソールに表示された、収束点のエネルギー構造図と、そこに重ねて表示されるアルゴスの予測軌道を睨みつけた。イリスが示した噴射ポイントは、まさに針の穴を通すような、絶妙な位置だった。
「…10…9…8…」
船体のきしみが、断末魔の悲鳴のように大きくなる。
「…7…6…5…」
アリアは、手動制御に切り替えた噴射トリガーに指をかけた。
「…4…3…2…」
「今よっ!!!」
アリアは叫びと同時にトリガーを引いた。アルゴスの船尾に取り付けられた複数のノズルから、圧縮されたガスが轟音と共に一斉に噴射された。船内には、後方へと突き飛ばされるような強烈な慣性が襲いかかり、クルーたちはシートに激しく体を打ち付けられた。
アルゴスは、まるで巨大なイカが墨を吐くように、白いガスの尾を引きながら、収束点の中心へと突っ込んでいく。そして、その中心部に到達する寸前、最後の力を振り絞るように、わずかにその軌道を変えた。
船内を、言葉では表現できないほどの衝撃と轟音が襲った。全ての照明が消え、生命維持システムの駆動音さえも聞こえなくなる。アリアの意識は、そこで途絶えた。
どれほどの時間が経過したのだろうか。
最初に意識を取り戻したのは、アリアだった。全身を襲う激痛と、耳鳴り。彼女は、ゆっくりと目を開けた。ブリッジは、完全な暗闇に包まれていた。ただ、コンソールのいくつかの非常灯が、弱々しく点滅しているだけだ。
「…誰か…生きている…?」アリアは、かすれた声で呼びかけた。
「…うぅ…艦長…?」サムの呻き声が聞こえた。「ここは…地獄か…?」
「…ハナ…エヴァ…リアム博士…?」
「…なんとか…生きてるわ…」ハナの弱々しい声。
「…私も…大丈夫…です…」エヴァの声も続いた。
「…信じられない…我々は…本当に…」リアム博士は、言葉にならないといった様子だった。
そして、アリアの脳内インプラントに、か細いながらも、はっきりとした声が届いた。
「…イリス…オンライン…です…アリア…船体状況…スキャン中…」
アリアは、震える手でヘルメットのバイザーを上げた。そして、予備電源でかろうじて再起動したメインスクリーンに目を向けた。
そこに映し出されていたのは、完全な静寂に包まれた、穏やかな星空だった。見たこともない色彩の星雲が遠くに輝き、近くには、巨大なリングを持つ惑星が悠然と浮かんでいる。
先程までの混沌としたワームホール内部の光景は、どこにもなかった。
「…ここは…どこなの…イリス…?」
「…不明…です…アリア…しかし…ワームホール…は…通過…した…模様…です…我々は…別の…宇宙領域…に…到達…しました…」
沈黙が訪れた。それは、先程までの絶望的な状況とは異なる、どこか厳粛で、そして途方もない達成感に満ちた沈黙だった。
彼らは、生き残ったのだ。そして、人類の誰も見たことのない、新たな宇宙へと、確かに到達したのだ。
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