第14章:ワープ突入
アリアの号令と共に、アルゴスはオリオンV型ワープドライブを全開にした。船体を青白いエネルギーの繭、ワープフィールドが包み込み、次の瞬間、銀色の葉巻型宇宙船は漆黒の宇宙空間からその姿を消したかのように見えた。実際には、アルゴスは亜空間の浅い層を滑るように、エウリディケの門の中心部、わずかな時間だけ開いた漆黒のトンネルへと、恐るべき速度で突き進んでいた。
ブリッジのクルーたちは、強烈な加速Gによってシートに深くめり込んでいた。メインスクリーンに映し出されていたXオブジェクトの禍々しい姿は、ワープフィールドのレンズ効果によって極端に歪み、虹色の光の渦と化していた。その渦の中心にある一点の暗黒、ワームホールの入り口が、急速に迫ってくる。
「ワープフィールド、安定! Xオブジェクトの時空界面まで、あと10秒!」ハナが、歯を食いしばりながら報告した。彼女の指は、ワープフィールド制御コンソールの上を正確に、しかし激しく動き回っている。
「船体構造、応力限界値の60%に到達! このまま突入すれば、さらに上昇します!」サムの声には、押し殺した興奮と不安が混じっていた。
「リアム博士、Xオブジェクトの反応は!?」アリアは、目の前の光景から一瞬たりとも目を離さずに叫んだ。
「エネルギーパターンが…変化しています! 我々のワープフィールドに…何か…共鳴しているような…! 開口部が、わずかに広がっているように見えます! しかし、同時に、周囲の時空乱流も増大している!」リアム博士の言葉は、希望と警告を同時にはらんでいた。
「イリス、ワープフィールドの位相調整、オートで最適化を継続! どんな些細な変化も見逃さないで!」
「了解、アリア。現在、Xオブジェクトの時空構造とワープフィールド間のインピーダンス整合を試みています。しかし、予測不能な高周波振動が発生…!」
イリスの言葉が終わるか終わらないかのうちに、アルゴスはエウリディケの門の入り口、黒曜石のように滑らかな暗黒の平面へと到達した。ワープフィールドが、その未知の境界面に接触した瞬間、船内はこれまでのシミュレーションでは経験したことのない、凄まじい衝撃と振動に見舞われた。
「ぐあああっ!」
クルーたちの悲鳴が、アラート音の狂騒にかき消される。ブリッジの照明が激しく明滅し、いくつかのサブシステムが火花を散らして停止した。アリアは操縦桿を握る手に全神経を集中させ、ワープフィールドの僅かな揺らぎさえも感じ取ろうと努めた。しかし、船はもはや彼女の制御下にあるとは言えなかった。それは、荒れ狂う奔流に飲み込まれた小舟のように、ただ未知の力に翻弄されるだけだった。
「ワープコア、出力不安定! エネルギー逆流の危険性!」サムが絶叫した。
「船体各所にマイクロフラクチャー発生! Aegis-7装甲が悲鳴を上げています!」ハナも続く。
「時空の曲率が…想像を絶する数値を示している…! これでは、まるで…ブラックホールのエルゴ球内部にいるようだ…!」リアム博士は、恐怖に顔を引きつらせながらも、科学者としての好奇心を失っていなかった。
メインスクリーンは、もはや意味のある映像を映し出してはいなかった。それは、あらゆる色彩が暴力的に混ざり合い、回転し、明滅を繰り返す、悪夢のような抽象画だった。時間感覚は完全に狂い、空間の認識も曖昧になっていく。クルーたちは、強烈な吐き気と目眩に襲われ、意識を失いそうになるのを必死にこらえていた。
アリアは、歯を食いしばり、額から流れ落ちる汗が目に入るのも構わず、ただ一点、ワープフィールドの状態を示すゲージを睨みつけていた。ゲージの針は、危険領域で激しく揺れ動いている。もしワープフィールドがここで崩壊すれば、アルゴスは一瞬にして原子レベルまで分解されてしまうだろう。
(まだだ…まだ終われない…!)
彼女の脳裏に、レッドリーフ作戦の炎と煙が蘇る。仲間たちの絶望的な叫び。あの時、自分は何もできなかった。だが、今は違う。自分には、守るべきクルーがいる。そして、人類の未来がかかっている。
「イリス! ワープフィールドの安定化、何とかできないの!?」
「…試みています、アリア…しかし…外部からの干渉が…あまりにも…強大…です…」イリスの声は、ノイズに埋もれ、途切れ途切れになっていた。「ワープ…フィールド…臨界…寸前…!」
その言葉が、アリアにとって最後の引き金となった。彼女は、コンマ数秒の間に決断を下した。それは、あらゆるマニュアルにも載っていない、艦長としてのアリア・コヴァルスキー自身の、直感と経験に基づいた最後の賭けだった。
「全クルー、衝撃に備えろ! イリス、ワープフィールドの出力を、一瞬だけ、意図的にオーバーロードさせる! その反動で、この乱流を突破する!」
「アリア、それは危険すぎます! ワープコアが…!」イリスの制止の声。
「やるしかないのよ!」
アリアは、マニュアルオーバーライドでワープコアの制御を掌握し、エネルギー出力を限界以上に引き上げた。船内が赤色の緊急灯に包まれ、ワープコアの悲鳴のような高音が響き渡る。船体は、まるで内側から爆発するかのように激しく震え、次の瞬間、ワープフィールドが眩いばかりの光を放って膨張した。
それは、まさに諸刃の剣だった。膨張したワープフィールドは、周囲の時空乱流を一瞬だけ押し広げ、アルゴスに僅かな進路を切り開いた。しかし同時に、船体とワープコアにかかる負荷は、許容限界を遥かに超えていた。
「今よっ!」
アリアは、その一瞬の隙を見逃さなかった。彼女は全神経を集中させ、アルゴスの機首を、乱流のわずかな切れ目の先に見える、さらに深い暗黒へと向けた。
そして、アルゴスは、まるで巨大な波に乗り上げるように、その乱流の壁を突破した。
船内を襲っていた暴力的な振動が、嘘のように和らいだ。しかし、それは安堵を意味するものではなかった。ワープコアは致命的なダメージを負い、ワープフィールドは急速に収縮し、消滅しようとしていた。
「ワープフィールド…消失します…!」ハナが、絶望的な声を上げた。
ワープの推進力を失ったアルゴスは、しかし、慣性と、そしてワームホール内部の未知の引力によって、依然として前進を続けていた。窓の外の景色は、先程までの色彩の洪水とは異なり、どこまでも続く、歪んだトンネルのような暗闇だった。時折、そのトンネルの壁面を、稲妻のような未知のエネルギーが走り抜けるのが見えた。
彼らは、確かに、エウリディケの門の内部へと到達していた。しかし、それは、新たな、そしてより深刻な危機の始まりに過ぎなかった。
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