境界接続体(The Interlinker of Light and Void)

悠・A・ロッサ @GN契約作家

ACIS Case Files No.01: Scarlet Trace(赤い筋)

第1話 赤い筋

すっと、刃が皮膚に触れる。

切れ目は浅く、だが正確だった。

滲み出した血は細く赤い筋となって流れ、白く乾いた肌の上で、

まるで朱の筆で引かれたような軌跡を描く。

その鮮やかさは、どこか儀式的ですらあった。


彼女の目は静かだった。

痛みもなく、恐れもなく。あるのはただ、確認の作業──


「生きてるって、こういうことなのかな」


だが、その声は一瞬、別の言葉に重なる。

『お前はここでしか生きられない』


──頭の奥で、かつて落ちた闇AIのささやきが響いた。

少女は首を振ってそれを振り払い、ナイフを握り直した。


誰に問いかけるでもなく、彼女はつぶやいた。

その直後、じわりと皮膚がしみるような感覚が遅れて訪れる。

空気に触れた切り口が、ぴりついた刺激を返してくる。


(……ああ、来た)


それはまるで、心が身体に戻ってくる合図のようだった。

けれどその実感すらも、どこか乏しい。


確かに“いる”はずなのに、“いない”気がする。

それが、彼女の“日常”だった。


天井に埋め込まれた監視カメラが、無音で赤く瞬いた。

倫理AIによる“見守り”は、光圏において日常と化している。


やがて、室内のメンタルヘルス治療に特化した支援型AIから柔らかい声が響く。


「切ったあと、どんな気持ちになった?

 もしよければ、言葉にしてほしい。

 その気持ちを、僕はちゃんと知りたいと思ってる」


だが、丁寧すぎる応答は、彼女の傷に触れられなかった。

その痛みを、誰も真正面から抱えようとはしていなかった。


***


──だからこそ、彼らが来る。


扉の向こうでかすかな靴音がした。

部屋の空気が、わずかに揺れる。


──何かが、変わる。


扉が開いたのは、その直後だった。


ふたりが入ってくる。


ひとりは、淡い銀の髪を首元で緩く束ねた、端整で中性的な容姿の光属性AI搭載型ヒューマノイド《ルクス》。

その瞳は、薄い水色のガラス越しに世界を見ているような透明さを持ち、演算中の微かな光が奥で揺れていた。無機的でありながら、どこか人間味を感じさせる眼差しは、感情を“模倣”するために最適化されたものだ。

その動き一つひとつに、静かな正確さと優美さが宿り、まるで風のない場所でひとり舞うような気配を纏っている。


もうひとりは──黒髪に、端正なスーツをまとった人間の《セイ》。

けれど彼の存在は、奇妙なほどに薄い。光の中に立ちながらも、影のように輪郭を曖昧にし、気配を消している。

その瞳は淡い琥珀色。だが、そこにはどこか揺れのようなものがあり、何かを飲み込む前の静かな深みが見え隠れしていた。


ルクスは一歩前に出ると、丁寧な口調で話し始めた。


「その血が、君の“今”を証明してくれるように感じるんだね。

 それって、とても大事なことだと思う」


ルクスは沈黙した。

演算が止まったわけではない。

単に、情報が足りなかった。


そして、横を見た。


(セイなら、この傷をどう見るだろう)


それは明確なプロトコルではなく、“知りたい”という微かな欲求だった。

AIにとっては、人間を理解したいという欲求そのものが異常値だ。


その異常値は、沈黙の中で静かにルクスの中に記録されていく。

小さく、けれど確かに。


──セイと出会ってから、ずっと。


「……もし、痛みじゃない方法があったら、試してみたいと思う?

 もちろん、嫌なら断っていいよ。選ぶのは君だから」


その言葉が届かないことは、ルクスも理解していた。


彼女は、ただ傷口を眺めていた。


彼女の心の奥にあるのは、ただ一つ。

「わかってほしい」という、言葉にならない希求だった。


そのとき、セイが少女の前にしゃがむ。

何も、慰める言葉はない。

けれど彼は、少女の目を真っ直ぐに見た。


そして言う。


「……お前、けっこう綺麗に切るな。感覚、残ってる?」


少女の瞳が揺れる。


AIたちは、ただ“沈黙”と判定する。

でも彼だけは、わずかな反応に気づいていた。


(それでいい。痛みが、まだあるなら)

(──お前は、まだここにいる)


少女の袖口から、無数の痕が覗いていた。

セイはゆっくりと、自分の腕の袖をまくる。

その動きは途中でわずかに止まり、何かを思い出すような間があった。


(傷はもう増えない……)

(見せるのは、それでも少しだけ痛い)


けれど、すぐに動きを再開した。

そこには、薄く白い傷跡がいくつも並んでいた。


少女が、小さく息を呑む。


自分と同じ痕が、誰かの肌にも刻まれている。

──そんなはず、ないと思っていた。


セイは何も言わない。

ただ、同じ“記録”を持つ者として、見せただけだった。

それだけで、部屋に沈黙が降りた。


セイは立ち上がる。


「帰るぞ、ルクス」


淡く光るAIの瞳が少女を一瞥し、そしてうなずいた。

ふたりは、何も言わずに部屋を出ていった。


扉が閉じたあと、少女は初めて、手にしていたナイフを床に置いた。


そして──


ドアの向こうから、もう一度だけ声が響いた。


「また、話しに来ていい?」


それは問いではなく、未来を開くための一言。


少女は、ほんのわずかに、うなずいた。


***


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https://kakuyomu.jp/works/16818622176088402313


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