第51話 兄と妹 月の夜

 森の奥から、ホウ、ホウ……と低く柔らかなフクロウの鳴き声が聞こえる。

 虫の音が遠くに重なり、深い闇の中に、静けさだけがゆっくりと降りていた。

 開け放った窓からは、蛍が一匹、迷い込んでいた。


 ジヤードは自室で、ベッドの背に凭れて座り、本を読んでいた。

 サイドテーブルに灯されたランプが、ページの上に仄かな光を落とし、窓の外には月が朧げに浮かんでいた。


 扉がコン、コンと軽くノックされた。


「開いてるよ」


 声をかけると、そっとドアが開く。

 そこに立っていたのは、ナイトウェア姿のミーネだった。


「どうかしたの?」


 ジヤードが顔を上げて尋ねると、ミーネは黙ったまま、手にしていた分厚い本を軽く持ち上げて見せた。そして、何も言わずに部屋に入ってくると、ベッドの縁に片膝をのせ、そのままジヤードの両脚のあいだにちょこんと腰を下ろした。


 ジヤードは、読んでいた自分の本をそっと脇に置き、問いかけるように両手を広げた。


「どうしたの?」


 ミーネは答える代わりに、手に持っていた本を抱いたまま、静かにジヤードの胸元へ体を寄せた。

 小さな頭が、兄の胸に押し付けられ、ほのかに温もりが伝わってくる。


「……本、読んで?」


 その声は囁くように、遠慮がちで、それでも確かな要求が含まれている。

 ジヤードは、広げていた腕をそっとベッドに下ろし、ミーネの髪に視線を落とした。


「もう、自分で読めるでしょう?」


 優しく言いながらも、その声の中には、ほんの少しの戸惑いがあった。

 けれど、ミーネは何も答えない。ただ黙ったまま、兄の胸に身を預けている。

 ジヤードは、ため息のような息をひとつ落とす。


「……それに。ミーネはもう大人だし、こんなふうに――にぃにのベッドに入り込んだら、だめだよ」


 言い聞かせるような言葉にも、やはり返事はなかった。

 静かな沈黙が、部屋の中に広がる。

 外ではフクロウの声が、変わらず、夜の森を見守っていた。


「にぃにはどうして、旅を続けるの?」


 ミーネの声は小さくて、けれど、胸の奥にまっすぐ突き刺さるようだった。

 ジヤードは少し間を置いて、低く穏やかな声で答える。


「前にも言ったでしょ? ミーネの病気が治せるお医者さまか、薬を探しているんだ」


 それは何度も繰り返してきた答え。けれど――


「でも、咳が治らなくても、大人になれたよ?」


 ミーネは顔を上げ、真っ直ぐに兄を見つめた。


「にぃにがそばにいてくれるほうが、ミーネ、ずっと元気になれる。それに……にぃにがいない間は――」


 言いにくそうに、もぞもぞと続ける。


「……ここにきて、にぃにの匂いを嗅いでるの」


 潤んだ黒い瞳が、真剣にジヤードを見上げていた。

 それは甘えに似た、小さな祈りのようだった。


 ジヤードは、一瞬、息を呑んだ。

 心臓が、どこか居心地悪く高鳴る。


 何かを誤魔化すように、ジヤードはそっと視線を逸らした。


「わかった。本、読んであげるから――」


 ジヤードはミーネから本を取り上げ、ページを捲った。


 ◇


 ページの上に視線を落としたまま、ジヤードはいつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 心地よい静けさと、夜の微かな風。ふと、唇にやわらかな感触が触れた。


 はっとして目を開けると、すぐ目の前にミーネの顔があった。

 まだ少しだけ瞼の重い頭で、状況を理解しながら、ジヤードは体を後ろに仰け反らせた。


「……だめだよ、ミーネ」


 ミーネは、黒目がちの瞳で、ジヤードを上目遣いで見た。


「キスは……好きな人とするんだ」


「じゃあ、にぃには……好きな人と、したことがあるの?」


 問いかけは無邪気でいて、どこか探るようだった。

 ジヤードの脳裏に浮かんだのは、旅の夜に出会った娼婦たち。

 皆、華奢で、うねるような癖毛の黒い髪の、人間族――ミーネに似た……。


「あるの?」


 もう一度、ミーネが尋ねた。声は小さく、けれどはっきりと。

 ジヤードは視線を少し落とし、静かに答える。


「好きな人とは、ないかな」


 それは、冗談でも照れ隠しでもなく、本音を掬い取るような、乾いた呼吸のような言葉だった。静寂が落ちる。


「好きな人じゃないのに、キス、するの?」


 ジヤードは何も答えなかった。視線を逸らし、唇を引き結ぶだけ。

 やがて、低く、静かな声で言った。


「ミーネ。もう、自分の部屋に戻って」


 それは、優しさと拒絶が同時に混ざったような声だった。

 ミーネは黙ったまま、ジヤードを見上げる。潤んだ目で、ただじっと。


「好きな人とするの? 好きじゃない人とするの?」


 繰り返す問い。

 ジヤードは短く息をつき、もう一度、言葉を選ぶようにして応えた。


(――ああ、僕のミーネ)

「さっきも言ったでしょ? 好きな人とするものだよ」


 その声には、どこか、ジヤード自身に言い聞かせるような響きがあった。

 ミーネは、じっと兄を見つめたまま、問う。


「じゃあ、なんでにぃには、好きじゃない人と、キスしたの?」


 ジヤードは、息を詰まらせる。


「それは――」


 応えあぐねるジヤードの唇に、ミーネがまた、軽く口づけをした。

 柔らかく、濡れた感触と、ミーネの吐息。


「にぃに、好き」


 目の周りを赤くして、ミーネが微笑む。安心したように、穏やかに、揺蕩たゆたうように。


 ジヤードの中で、何かが崩れた。もう、だめだった。

 理性や常識といったものは、宵の翼に乗って連れ去られた。


 自分に凭れかかるミーネの腰を引き寄せ、反対側の手で顎を持ち上げた。喰らいつくようにその唇を塞ぐ。


 そのまま、体勢を変えて、ミーネに覆いかぶさり、また唇を塞ぐ。そのまま、ミーネの歯に沿うように、舌を滑らせた。その奥をゆるくこじ開ける。

 ミーネは抵抗することなく、ジヤードの舌を受け入れた。


 ミーネの柔らかい舌を追って、ジヤードは舌を絡めた。抵抗しようとしてか、伸ばしてきたミーネの手を握りしめ、指を絡ませ、その腕をベッドに押し付けた。

 とろんとした目のミーネは、上手く息ができないのか、「はっ……はっ……」と、浅い呼吸を繰り返す。


 唇を離し、ジヤードはミーネを見下ろした。


「息。できない?」


 ミーネは頷くが、それでも呼吸は途切れ途切れだ。

 首筋を啄むと、「ひゃぁん」という可愛らしい声が聞こえた。そこから耳の裏まで、ゆっくりと昇っていく。


 ミーネは耳の裏が好きなのか、そこに唇をつけると、ぶるっと震えた。絡めあった指に、力がこもり、「んっ」と短い吐息を、何度も漏らす。がぶりと耳たぶを噛むと、痙攣して、ひと際大きな吐息が漏れた。


「ミーネ……。大丈夫?」


 ミーネは涙ぐみながら、こくりと頷いた。


「もっと、息、できなくなること、するよ? いいの?」


 この先に進めば、もう、後戻りはできない。やめるなら今だ。頭の中で理性が問う。頭ではわかっている。なのに、仄暗いさざ波が押し寄せる。

 それでもジヤードは、自分がこれから何をしようとしているのか、はっきりと自覚していた。


 ――やっぱり、だめだ。


 そう思って離れようとした首に、ミーネが腕を絡め、顔をもたげて唇を押し付けてきた。


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