第46話 感謝の灯
明け方。東の空が、ほんのりと薄青く染まりはじめたころ。
うつらうつらとしていた私の部屋の扉が、控えめにノックされた。
そっと扉を開けると、そこに立っていたのはルガンだった。
寝起きのはずなのに、顔は引き締まり、目は冴えている。
その背後には、リドとジヤードの姿もあった。
「ジヤードが、話があるそうだ」
ルガンが小声で言い、肩越しにジヤードを振り返る。
私は小さくうなずき、扉を大きく開けた。
「入って」
三人は無言のまま部屋に入り、それぞれ空いている椅子やベッドの縁に腰を下ろした。しんとした朝の空気の中、みな、どこか沈んで見えた。
そんな中、ルガンがぽつりと口を開いた。
「……すまねえ。俺だけ、能天気に……その、酒飲んで。祭り、楽しんで……」
ルガンは拳を握りしめ、うつむいた。
「今朝、ジヤードから話を聞いた。……それで、リドに相談に行って……三人で、お前のとこに来たんだ」
ルガンが静かにそう言ったあと、ジヤードは何かを決意したように、ゆっくりと顔を上げた。
「教会で――僕の聞き間違いかもしれません。でも、聞こえたんです」
そこで一度言葉を切り、ジヤードは自分の手を強く握った。
「『殺してくれ。これ以上、愛した村人の子孫を食べたくない』と」
部屋に沈黙が落ちる。
それは、神として祀られた神父の――あの魔人の姿をした存在の、心の声なのだろうか。
ジヤードが、半分ハイエルフの血を引いているからこそ、同じくハイエルフと魔人の間に生まれた神父の声が、彼にだけ届いたのかもしれない。
「どうする、シオ? 私は、このまま村を発つつもりだったが、ジヤードが聞いた声を、村人に伝えるべきだとも思う。だが――」
リドの言いたいことは、痛いほどわかる。
今まで、村の風習として捧げられた命が還ってくるわけではない。
神父の心の内を知らなかったとはいえ、人を――同じ村の人間を、神の名のもとに、“喰わせて”きたのだ。
その事実に、村人たちが耐えられるだろうか。
信じてきたものが、祈ってきた相手が、そう思っていたと知って――それでも生きていけるだろうか。
けれど、止めなければ、これからも続いていく。
あの「供物」と呼ばれた女性も、今日には還らぬ人となるのだ。
私は、ふと思い出した。
「……昨日の夜。誰かの泣く声が聞こえてきたんだ。たぶん、エマだと思う」
リドが目を伏せる。
「彼女も、わかってるのかもしれない。けど、誰かが言葉にしないと、終われないんだよ。きっと」
私は静かに頷いた。
「村長に、ジヤードが聞いた声を伝えよう」
私たちはお互いを見て頷き、部屋を出た。
◇
四人で一階へ降りると、リビングホールのソファに村長が座っていた。年の頃は五十代半ばほど、整えられた白い髭に、深い皺の刻まれた顔が、朝の光の中で静かにこちらを見ている。
「おや、お早いですな。今、エマが朝食の支度をしております。もう少しで……」
言葉の途中で、村長は私たちの様子に気づいたのか、わずかに眉を寄せた。
私たちは返事をすることができず、しばらく重たい沈黙が流れた。
やがて、ルガンが神妙な面持ちで、静かに口を開いた。
「じつは……その、神父のことだが――」
村長は頷くこともなく、ソファの背もたれにもたれたまま、じっとルガンの話に耳を傾けていた。ジヤードが聞いた声のこと。神父の本心が、瘴気に覆われながらもなお、残っていたこと。供物という名の犠牲が、もしかしたら望まれていないものなのかもしれないこと。
ルガンが言葉を探しながら語り終えると、私がそれを引き継ぐようにして言った。
「昨夜、誰かの泣く声が聞こえました。女性の、細い啜り泣きでした……エマさん、だったと思います」
私がそう告げると、村長はふと視線を落とし、それきり微動だにしなくなった。その顔は、どこか遠く――もう手の届かない過去を見つめているようだった。
やがて、深く、長い沈黙ののち、かすれた声が落ちてくる。
「……そうですか。神父様は瘴気に染まって以来、何も語らず、ただ呻き声をあげるだけになられた。村人の誰も、もうあの方の心が残っているとは思っていなかったのです」
言葉を重ねながら、村長の手が、わずかに震えているのが見えた。
「では……私たちは、“供物”という名のもとに……ただ、あの方の絶望に蓋をしてきたというのですか」
その声は、まるで冬の湖面がひび割れるような――静かでいて、どこか取り返しのつかない音を孕んでいた。
ルガンが、ゆっくりと拳を握りしめるのが視界の端に映る。リドも何かを飲み込むようにして、黙って立っていた。ジヤードは顔を伏せ、尻尾を低く垂らしている。
この村の「感謝」と「信仰」、それらの上に積み重ねられてきたものの重みが、今、この場に静かに降り積もっていた。
やがて、村長は静かに立ち上がった。どこか遠くを見るような目をしたまま、深く頭を下げる。
「……話してくださって、ありがとうございます」
その言葉に、私たちはほっと息を継いだ。
けれど、続く言葉にまた、言葉を失った。
「ですが――これは、遺言なのです。神父様のお母上の……ハイエルフだった女性の、最後の言葉です」
村長はゆっくりと顔を上げ、私たちを見つめた。その瞳には、深い疲れと、代々紡いできた葛藤が揺れていた。
「『この子を殺せば、村に災いが起こる』。それが……お母上の遺した、お告げでした」
静寂が落ちた。
それは、愛する息子を生き永らえせるための、ただの脅しだったのか、それとも、本物のお告げだったのだろうか。
私は、ジヤードをちらと見た。神父の声が彼に届いたのなら、神父の母親――ハイエルフの女性にも、同じように声が届いていたのではないか。
だとすれば、そのうえで……母親は、あえて災いを遺言として、遺したのだろうか。
村長は、さらに踏み込んで、私たちに問うた。
「あなたたちはそのお告げを、解決できるのですか?」
その声には、わずかな希望と、確かな恐れが入り混じっていた。
かつてこの大地と共に生き、万物に語りかけていたという、魔力特化のハイエルフ。神父の母であったその者が遺した――いわば呪いに、無闇に触れて良いのだろうか。
結果的に、その呪いを解くことができたとして――けど、解けるとは思えない――その代物に、ただの通りすがりの旅人が、踏み込んでよいのか……。
誰もが、息を詰めたまま言葉を失っていた。
その沈黙の中、静かに村長の声が落ちる。
「よいのです。答えなど見つかりません」
それは、あまりに古く、あまりに強く、村人の心に根を下ろしすぎていた。
「だからどうか、見ていってやってください。自ら望んで供物となるものの、最期の晴れ舞台を」
それはとても、穏やかな微笑みだった。
◇
見届けるつもりなど、なかった。
生贄――そんな、気分の悪いもの。
なのに私たちは今、教会の前で、村人たちに混じりながら、綺麗に着飾ったあの女性の背を、黙って見つめていた。
それは、厳かに始まった。
朝露に濡れた花弁が、石畳の通路に敷き詰められている。
まるで祝福の小径。
周囲では、村人たちが静かに手を打ち鳴らし、その歩みに拍手を送っていた。
晴れ着に身を包んだ彼女は、何一つ曇りのない表情で、花の道を、まっすぐに歩いていく。
まるでそれは、結婚式のようだった。
そう――幸せな未来へ向かうはずの、あの儀式のように。
けれどその先にあるのは、愛ではなく――死だ。
やがて彼女は教会の扉を潜った。扉は静かに、けれど決して後戻りのできない音を立てて、重く閉じられた。
しん……と空気が凍りつくような、静寂が落ちた。
何も聞こえない。
悲鳴も、祈りも、衣擦れさえも。
やがて、教会の扉はゆっくりと開かれた。
目を凝らしても――そこには、血の一滴もなかった。
荒らされた様子もなく、ただ、整然と、静寂だけが支配している。
捧げられたはずの尊い命の痕跡は、跡形もなく、まるで最初から、何もなかったかのように。
中央の十字架に、あの神父が縛られている。
その目が――深紅の瞳が、潤んでいるように見えた。悲しみとも、諦めともつかない、遠い何かを湛えて。
結局のところ、本当の「生贄」とは、誰だったのだろう。
祀られた者か。捧げられた者か。
それとも――この村そのものが、何かに飲まれた犠牲だったのか。
ならこんな村、最初から滅びていればよかったんじゃないか――。
いや、だめだ。
それは、あまりにも、心が歪みすぎる。
けれど胸の奥で、なにか大切なものがひとつ、ひび割れる音が聞こえた気がした。
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