第9話 二日酔い
小鳥の囀りが聞こえる。
瞼の裏がじんわりと重くて、目の奥がずきずきと疼いていた。気がつくと――私は、ドレス姿のまま、ベッドから半身を床に落としていた。
どうやら、寝返りを打った勢いで、そのまま転がりかけたらしい。
頭が痛い。若干、気持ち悪い。
……完全に、飲みすぎた。
ドレスの背中のボタンは、全て外されていた。
けれど、それ以上のことを何かされた気配はない。
きっと、酔いを少しでも楽にしようと、ルシンダさんがしてくれたのだろう。
そして、昨日の脱衣所での騒動も、理解してくれていたのだ。
あえてパジャマに着替えさせずに、そっと寝かせてくれたらしい。
ふらりと立ち上がり、部屋のキャビネットに目をやると、そこには、昨日まで着ていた旅人の服が、きれいに洗濯され、アイロンまでかけられて置かれていた。
冒険者の服はまだ用意されていなかったので、私はそれに着替え、身支度を整える。気分はまだ完全ではないけれど、空腹の方が勝っていた。
私は、少し重たい足取りで、朝食を取るためにダイニングホールへと向かった。
◇
ダイニングホールの扉を潜ると、既にアルが席についていた。
姿勢よくテーブルに向かい、手には紅茶と一冊の小さな本。まるで彫像のように整っていて、窓から差し込む朝の光が、その綺麗な横顔をきらきらと照らしていた。
……この人は、顔がむくんだりしないのだろうか。
私はといえば、昨日の酒が残っていて、まだ瞼が重いというのに。
けれど、アルは私の気配に気づくとすぐに顔を上げ、やわらかく微笑んだ。
「おはよう、詩織。……気分はどう?」
ま、眩しい。アルの微笑みが後光を差した如来のように眩しい。
「……ちょっとだけ、頭が重いです」
「それなら、これを飲んでみて」
そう言って、彼が差し出したのは、小さなガラス瓶――淡く乳白色に光るポーションだった。
それを受け取って、恐る恐る一口飲んだ。
「――……ん。なにこれ、ほわほわする……」
じわりと体の奥からあたたかさが広がっていく。
頭の痛みも吐き気も、魔法のようにすっと引いていった。
すごく効く……。次は、これを作ろう。
私が席に着くと、隣の部屋のキッチンから、食事が運ばれてきた。
前菜の、カブのカルパッチョ風サラダが、テーブルに置かれた。
このほかに、丸パンとジャガイモのポタージュと、ゆで卵。締めは紅茶だった。
朝ご飯にちょうどいい。
一息ついてから、私はおそるおそる口を開いた。
「……あの。私、きのう……なにか、やらかしてませんでしたか?」
「なにを?」
アルが問い返し、少しだけ首を傾げる。
そのしぐさが、やけに優雅で腹立たしい。
「ん~そうだね――強いて言えば、背中が……、とても美しかった」
そう言って、瞼を伏せた頬に、淡い陰りが宿る。触れたくなるほど、脆くて、優しい影だった。
それから――
「そこに口づけでもしてしまったら、そのまま止まらなくなりそうだったから、踏みとどまるのに必死だったんだ。けれど同時に、理性というものがこの世に存在することに、僕は初めて怨嗟を覚えた。こんなものさえなければ、僕はとっくにきみを――」
そこまで言って、アルは頬づえをついて眉根を寄せた。口元だけ、笑みを浮かべる。
いわゆる、苦悩の表情だ。
「――ああ、今のは気にしないで。つい本音が口をついてしまっただけだから」
『つい』なの!? 絶対わざとじゃない!?
『頑張って』『踏みとどまった自分』を褒めて的な――!!
――と、いうことは……。ボタン、アルだったの!? ルシンダさんじゃなかったの!?!?
てっきり侍従の方々が運んでくれたのかと思ってた――。まさか、まさか、全部アルだったなんて。
危ない、危なかった……!
一歩間違えば、私の純情が奪われていたかもしれない――!
「ち、ちがいます! そうじゃなくて、その前というか……ワインを飲んでいるときに……私……」
「うん?」
アルが頷き、ほんの少しだけ口元をほころばせる。
「そうか、あれか。――あれは、とても良い右ストレートだった」
……ああ――――やっぱり。
――殴ってた~。私、公爵様のこと拳で殴ってた~。
テーブルの端に額を打ち付けたくなる気持ちを、私はなんとか押しとどめながら、小さく唸った。
「……ごめんなさい」
情けない声でぽつりと謝る。
それに対して、アルは意外なほど穏やかに――むしろ、楽しげに言った。
「どうして謝るの? 僕は、今までにない……とてもいい経験をさせてもらったよ」
……は?
アルは、恍惚の表情を浮かべ、うっとりと遠くを見つめていた。
それはもう、幸せそうな顔。
……ああ、そうだった。
この人――竜人だけど――、超ど級の変態だったっけ。
◇
朝食を終えると、アルに一言だけ挨拶をして、私は静かに席を立ち、自室へと戻った。キャビネットから鞄を取り出して肩に掛け、深呼吸をひとつ。
早速、図書館へ向かうことにした。
UI画面を呼び出し、『ゲート』をタップ。一瞬、淡い光に包まれる。次に私を包んだのは、図書館の、やわらかい空気だった。
「おはよう」
中に入ると、カウンターの奥で丸くなっていた黒猫――ラビンが、半分だけ目を開けて私を見た。
「……んぁ。おはよう、詩織」
眠そうにあくびをしながら、ぽふっと尻尾を揺らす。
「スイレン草、取りに行ってくるね」
そう言って、私は図書館から森の扉を開いた。
一歩出る。朝の光が、今日という物語の新しい1ページを照らしていた。
◇
調合台の前で、ポーションを作っていると――
目の前に、ふわりと光るウィンドウが浮かび上がった。
《スキル【初級調薬】がレベル2に上がりました》
《一度に作成可能な個数:1→5》
「……おお」
思わず声が漏れた。
同じスキルを何度も繰り返すことで、経験値がたまり、スキルがレベルアップするらしい。そして今までは一個ずつしか作れなかったポーションが、まとめて五個作れるようになった。
これは――格段に効率がいい。
少しずつ、だけど確かに、自分ができるようになってきている気がする。
画面の隅に、ふと気になる表示があった。
一部がモザイクのようにぼやけていて、何が書いてあるのか分からない。
「ねえ、ラビン。このモザイクみたいなの、何?」
ソファで丸くなっていた黒猫が、尻尾をぴこりと動かした。
「ん? ああ、それか。それは、お前の知識が足りていないか――あるいは知識はあっても、レベルが足りていないんだ。
そういうときは、内容が保護されて、そこに表示されない」
「なるほど……知識とレベル、両方必要ってことね」
「そう。図書館の情報というのは、時に危険だからな。開示にも段階があるのだ」
ふむふむ――読破って、そういうことなのか。
ポーションは、今度まとめて売りに行くとして――今日は、昨日から読み始めた本の続きを片付けてしまおう。
本棚の記録から取り出したのは、『火を灯す君へ』――中原の民と炎の精霊にまつわる古い伝承書だった。
「それから――ここでは火の魔法は使うんじゃないぞ」
ラビンがぼそりと呟いた。
静かな午後。ページの向こうに、またひとつ新しい物語が灯る。
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