第6話 変態だった
誰にも見つからないように、人通りのない裏路地でそっとUI画面を開く。
画面が淡く光を放ち、私の体がふわりと消える。
――気づけば、そこはもう図書館だった。
「おかえり、詩織」
ラビンが、穏やかな声で出迎えてくれる。小さな黒猫の姿なのに、その存在は不思議と大きく感じる。
「つぎのおすすめの本ってある?」
私がそう尋ねると、ラビンは少し尻尾を揺らしながら本棚の奥へと歩いていき、やがて一冊の本を咥えて戻ってきた。
「そうだな。――これはどうだ?」
差し出されたのは、『火を灯す君へ』。古びた背表紙に、金の箔押しで控えめに書名が刻まれている。
「初歩の火の魔法が、使えるようになるはずだ」
ラビンが言う。
私はその場にそっと腰を下ろした。
その傍らで、ラビンが入れてくれたお茶の湯気が、やわらかく立ちのぼる。
静かなページのめくれる音と、お茶の香りが、静寂の中にやさしく溶けていく。
私は夢中でこの本を読みふけった。
――この世界のどこよりも、心が安らぐこの場所で。
◇
どのくらい時間が経ったのだろう。
ぼんやりとした意識の中、私の視界がふわりと浮き上がった。
「こんなところに座り込んでいたら、風邪をひいてしまうよ。……ほら、こんなに体が冷たい」
気がつくと私は、閣下に横抱きをされていた。
閣下の左腕は私の背中に、右腕は私の膝の下。
まるでお姫様抱っこの姿勢で、私は思わず、その首元に腕を回してしがみついてしまった。
ひ、ひいいいいいいっ。
なにをしているんですか閣下――!!?
「お、おろしてください、閣下っ……!」
「閣下ではない。アルと呼びなさい」
呼べるかあああああああああ!!
「……ほら、早く」
その声音は穏やかで、けれどどこか愉快そうで――このままだと本当に降ろしてくれなさそうな雰囲気だった。
ぐっ。屈辱だけど、こういうときは折れるしかない。
「……あ、ア……アル。降ろしてください」
「んー……。嫌だと言ったら?」
「や、約束が……違いますっ!」
「僕は、何も約束をした覚えはないよ?」
この、この――イケメンがああ。
何をしても許されると思ってるんだろう。腹立つ。ほんっとに腹立つ~。
「それと、僕たちは夫婦なのだから、敬語はやめよう。ね、詩織?」
……夫婦になった覚えは、ありません。
「今朝、『無理にとは言わない』とか、言ってませんでしたか?」
皮肉たっぷりに返したつもりだったけど――閣下、いや、アルは何も言わずに私を見つめ返すだけだった。
その虹彩は、うっすら光を宿すオパールの色彩。その中心には、私を見透かすような、縦型の黒い瞳。
「詩織。本当のところ、僕はきみに一目惚れしてしまったんだ」
えっ? ……なにそれ、冗談でしょう?
私のどこに、そんな “惚れる要素” なんて――?
困惑する私を前にして、アルの頬がわずかに紅潮した。
まるで、何かを鮮やかに思い出したかのように。
そして、彼の唇が、静かに、恐ろしいほどの熱を帯びて動いた。
「ああ、あの……鼻腔の奥を震わせる、むせ返るような血の匂い。匂い立つ熱に濡れた白い吐息は、今にも途切れそうに、儚く溶け――。
瞼は夜明け前の花のように薄く開かれ、まなざしは焦点を彷徨ったまま……蠟燭の灯のように揺れる瞳。
大きく開かれた瞳孔は、まるで難破船が辿り着いた深海の底のように時を止め、悠久の闇を
散りゆく花弁のように、命は細胞の隙間からこぼれていく。それでもなお、魂をかき集めるように、もがく体――」
待って。
「それが……食べてしまいたいくらいに美味しそうで。きみは、竜人の僕をぞくぞくさせた」
やばいレベルの変態いいいいいい!?
しかもやっぱり本当に私を食べようとしてるううううう!?
「それに――今朝の甘い口づけを。僕は、忘れることができない」
……いや、それはむしろ、ぜひとも忘れてください。
あれは事故です。記憶の海に沈めて、二度と浮かび上がらせないでください。
「さあ、僕と今すぐ
光の速さの返事をご所望ですか閣下!?
その時、ラビンの声が割って入った。
「ほら、いちゃいちゃしないでください」
ラビンが、閣下の脚にすりすりしている。
「してませんから――!!」
反射的に叫ぶ私。
たぶん、顔は真っ赤だった。
アルは深く溜息を吐いた。
「……仕方ない。きみに嫌われたくない」
アルがぽつりと呟いたその声は、さっきまでの茶化すような口調とはまるで違っていた。低くて、少しだけ掠れていて。不意に――とても、寂しそうに聞こえた。
その無防備な響きに、胸がきゅっとなる。
ほんの少しだけ、心の奥に、未知の感情が生まれた気がした。
でも――それはそれ。
イケメンだからといって、すぐに好きになるわけにはいかない。
アルは未知なる異世界の住人だ。
私とは、住む世界が違うのだから、もっと、ちゃんと、どんな人なのか、知らなくては。
あれ? 待って。これって、このまま結婚を続ける前提の人の考えじゃない?
違う違う。これは、あれだ。そう――わからないので、明日にしよう。
そうして、私はようやく、アルの腕の中から解放されたのだ。
◇
「さあ、今日はもう仕事は終わりにして、自宅に帰ろう。後は頼んだよ、ラビン」
軽やかにそう告げると、アルは私の方へと手を差し伸べた。その指先が優雅だ。
「……自宅って、ここから? どうやって――」
「僕の邸に繋がる扉は、ここだ」
そこは、なんの変哲もない、どこかの部屋へと繋がるただの扉に見えた。
だが、アルが扉を開くと、そこには、一面の芝生が見えた。
アルは扉をくぐる。私もその手に引かれるまま、あとを追った。
足元の感触が変わった。
床の感覚が消え、代わりに、ふわりとした柔らかな緑が足を包む。
そこはまるで、絵本の一頁のような、静かな庭だった。
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