第8話
その夜、陽菜のスケッチを見つめながら、俺は静かに息をついた。数字に囚われる俺と、数字に縛られない陽菜。その違いが、俺にとってどれだけ大きなものかをようやく理解し始めていた。
「俺は……あの男に勝てるのか?」
その問いは、自分にとって答えが出ないままだった。陽菜の言葉を信じたい。数字じゃないものが俺にあるのだと。それを信じることで、あの男に対抗できる何かが生まれるのだと。
でも、それが本当に可能なのか。頭を抱えたまま、眠りに落ちた。
翌日、街に出た俺は、あの男を探して歩いていた。善意99の異常な数字が目に飛び込めば、すぐに見つかるはずだ。だが、今日は違った。
街には人が溢れているのに、あの男の善意99がどこにも見当たらない。それどころか、目に映る数字の光景がどこかぼんやりしていた。いつもなら鮮明に見える好感度や精神力の数値が、不安定な揺らぎを見せている。
「……何が起きてる?」
数字の不安定さは、俺に警告を発しているようだった。そして、嫌な予感が胸を覆う。
その時、視界の隅に陽菜の姿が見えた。彼女は通りの向こう側でスケッチブックを抱え、周囲を警戒するように見回している。
「陽菜……?」
俺は彼女の元に駆け寄った。だが、陽菜の顔にはいつもの笑顔はなく、少しだけ青ざめている。
「篠宮くん……」
陽菜が俺を見るなり、すがるような目でこちらを見上げた。その目に宿る不安が、俺の胸を締め付けた。
「どうしたんだ?」
「……あの人がいたの。例の男が」
「どこに?」
陽菜は震える指で近くの路地を指差した。その方向に目を向けると、薄暗い通りの先に立つスーツ姿の男が見えた。あの善意99が、揺らめくように輝いている。
俺はすぐに陽菜を守るように立ち位置を変えた。あの男が陽菜に何かをするつもりなら、絶対に阻止しなければならない。
「ここで待っててくれ。俺が行く」
陽菜が不安そうな顔をしたが、俺の目を見て頷いた。
「……気をつけて、篠宮くん」
路地を進むと、男がゆっくりとこちらを振り返った。その顔には、いつもの冷たい微笑が浮かんでいる。
「やあ、篠宮くん。また会ったね」
その声には余裕があった。俺を待ち構えていたような態度だ。
「何をしているんだ?陽菜に近づくな」
俺の言葉に、男は微笑を深める。
「陽菜?ああ、君の友人か。興味深いね。彼女には数字がない。まるでこの世界に属していない存在のようだ」
その言葉に、俺は背筋が凍る思いだった。男は陽菜の特異性に気づいている。彼女の「空白」が、俺とあの男のどちらとも違うことを。
「彼女に手を出すな。俺が相手だ」
男は少しだけ目を細めて俺を見つめた。
「君が相手になる?面白いね。では、見せてもらおうか。君がどれほどの“数字”を持っているのか」
その瞬間、彼の周囲の善意99が激しく揺れ、まるで生き物のように広がり始めた。その光が俺を包み込み、目の前が眩む。
「篠宮くん、君の数字が何を意味するのか、僕に見せてくれ」
善意99の輝きが、俺の目を刺すように照らしていた。その中で、俺は拳を握りしめ、陽菜の言葉を思い出す。
「数字じゃないものが、君にはあるんだよ」
俺は胸の奥にある何かを信じるしかなかった。数字に縛られない「俺自身」を、この男の前で試す時が来たのだ。
「……俺は数字じゃないもので、あんたに立ち向かう」
その言葉が口をついた瞬間、男の笑顔がわずかに揺らいだ気がした。
善意99の光が俺の視界を覆う。数字の輝きが脳裏に焼き付き、全身を突き刺すような感覚が広がった。それは、ただの「数字」ではなく、強大な意志そのもののようだった。
「数字じゃないものだって?」
男が静かに問いかけてくる。その声は嘲笑混じりだったが、どこか興味深そうでもあった。
「篠宮くん、君は自分が何を言っているか理解しているのかい?君が今まで頼ってきたのは、その“見える数字”だろう?」
その言葉に、胸がざわつく。確かに、俺は数字を見てきた。それだけが俺の世界だった。だけど、それだけじゃないものがあると教えてくれたのは陽菜だ。
俺は拳を握りしめ、揺れる視界を凝視した。
「……あんたの言う通りだ。俺は数字を頼って生きてきた。でも、数字だけじゃ人を測れないことを、俺は知った」
陽菜の「空白」が証明してくれた。数字に縛られない存在が、この世界にあるということを。
「数字を使って人を支配しようとしているあんたには、きっとそれが分からない」
俺がそう言うと、男は小さく笑った。その笑みには余裕があった。
「面白い。なら、その“数字じゃないもの”とやらを見せてもらおうか」
男が手を一振りすると、善意99の光が渦を巻くように広がり始めた。その光が俺に迫る。視界の中で、善意99が無数に増殖していくように見える。数字の嵐が、俺を飲み込もうとしていた。
「……!」
俺は本能的に後ずさる。だが、胸の奥で何かが叫んでいた。この光をただ受け入れるのではなく、自分自身の何かで抗うべきだと。
「数字じゃないもの……数字じゃないもの……!」
呟くように、必死で自分の内側を探る。数字に頼らずに、俺が持っているもの。それは――
俺はポケットに入れていた紙に指で触れた。
陽菜が描いてくれた俺の絵。俺が描いた陽菜の笑顔。
それは数字では表せない何かだった。
「これが……俺だ!」
紙を開いて、その絵を善意99の光に突きつけた。
その瞬間、渦巻いていた光が一瞬だけ揺らいだ。
――やっぱり……そうだ。
陽菜が言ってた。「篠宮くんの絵には、数字に触れる力があるかもしれない」って。
ただの慰めじゃなかったんだ。
俺の感情が、線に、色に宿って……
この“支配の世界”に干渉できるんだ。
「……ほう」
男が静かに呟く。その目が、初めて俺に興味を示しているように見えた。
「それが君の答えか」
善意99の光が再び強まる。だが、俺はその絵を握りしめ、揺るがなかった。陽菜が信じてくれた「数字じゃないもの」を、俺自身が信じなければならない。
「数字がすべてじゃない……人間は、数字に支配されない!」
叫ぶように言葉を放つと、胸の奥から何かが沸き上がるのを感じた。それは今まで感じたことのない感覚――数字の呪縛を振り払うような、自由そのもののような力だった。
善意99の光が徐々に弱まる。その光景を見て、男の微笑がわずかに歪んだ。
「……やはり君は面白い存在だ、篠宮くん」
男は静かに一歩引き、善意99を収めるように手を下ろした。
「だが、それだけではまだ僕には届かない。もっと深く、君自身を知ることだ。さもなければ、僕の秩序に飲み込まれるだけだよ」
男はそれだけ言い残し、背を向けて歩き去った。その後ろ姿が消えるまで、俺は立ち尽くしていた。
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