禁色
気質によってそう考えさせられている。青年という過ぎ去りゆく一刹那において、与えられた気質がそのように考えているにすぎないのだから、凡ゆる思想に《浪漫主義的な永遠性》をみとめなかった。精神が、ではなく、気質が考えている。《思想ははじめから、肉体の何らかの誇張の様式》であり、《形式に化身し形式に姿を隠してしまわないような思想は、芸術作品の思想とは言い得ない》と考える。
彼は生活において精神を用いない。ただ、気質があるだけである。この気質が生活において妄動しているのであり、凡ゆる思想はこの気質のかげに姿を隠してしまっていて、気質に一致している。気質の赴くところ――美しくないおのれが美しい女に惹かれてしまうところの――すなわち愚行はしたがって《精神にも肉体にも拘ずり合わない、途方もない抽象性を》得、この、精神が不在で、思想が気質に一致して姿を隠している生活において、彼は《自分の愚行に、思想の弁護を借りないという矜りがあった》と述べられている。
気質に拠って立つところの行為のあとから、精神が弁護に立つと、思想が生れる。思想の持主はこうして《ありとあらゆる行為の蓋然性にすぎなく》なり、《思想の牢獄の囚われ人となる》。そう言った中で、彼だけが、精神をもつれずに気質をほつき歩かせている。彼だけが青年ではない。青年たちは自分の抱える願望と絶望とを何か普遍性のある永遠なものだと考えたがる。しかし《そうした苦痛を青年特有の苦悩にすぎない》と考えることに、彼の青年時代だけが終始した。それゆえ「僕だけが…」「僕だけが…」と考えている悠一に対して「そう考えることが青年の特権だ」と彼は答えるのである。
《俊輔の青年時代は青年でありたいという熾烈な願いの下に送られた。》とある。もし青年であることの条件が、自身の願望や絶望に浪漫主義的な永遠性をみとめることであるならば、彼も生活に精神を参加させれば可いはずだ。ところが彼は精神だけは傷つけたくないようだ。彼の精神は美しい。だから彼の精神は生活において気質をほつき歩かせている。
彼がそれでありたいと希う青年とは、美しい青年のことである。彼が惟うに、美しい青年には思想が必要ない。この思想の必要のなさが、彼のあこがれてやまない「青年らしさ」である。
すると彼が思想を生まないのは、美しい青年の、美しいという気質にのみ憑りたのんだ、思想の不必要性を模倣しているからだとわかる。《彼の唯一の長所でもあり唯一の美でもあるところの精神性》とあるとおり、彼の精神は美しいと考えられている。彼は自分の美しさを諦めきれない。美しい精神をもつ彼が美しくないはずがないと思いつづけている。美は思想の弁護を必要としないが、彼の気質もまた、思想の弁護を必要としてこずにやってきたのだから、そこに彼の、思想によらない救いが気質に
愛とは、彼の審美にかなうことを斥す。彼は自らの審美にかなうものを愛する、と拙くも表現している。美をかいさぐることのできる彼はしかしながら醜い。それだけならまだ耐えられただろう。ところが美はまだ生きているので、照会してくる。美をかいさぐる者のみにくい姿が美によって
精神は美を殺すことをおぼえる。剥製にして、
男として美しければ女に愛される。ここからはまるで、彼がただ愛されたがっているかのような印象を生ずるのであるが、審美をなりわいとするものの最愛の対象であるところの美しい精神は、ただ彼によってしか、愛されてはならないのであるから、彼が愛されることを求めているかのような外観を呈するのは、はげしい自己愛者だけが巧む擬態なのである。美しければ愛されるというのは単なる飛躍である。美しくないことは、愛されることを妨げるものではないが、自分が愛されない原因をみにくい姿に求めつづけている点に、彼本然の、美しい精神のみにくさすなわち欺瞞がある。愛されないのはただ彼が自己愛者であるからという以外にない。
彼は愛されたがっているのではない。美しい女にのみ、愛されたがっている。これはもはやただの語弊のある言い方で、美しい女と対をなすところの美しい男でありたい、という審美的充足の願望であって、愛し愛されるという結びつきを求めているわけではないことは、彼の美しい精神を愛するのは彼自身にしか許されていないことからもわかる。
《その醜さのためについぞ実母に愛されなかった》とあるように、美しさはそれを愛するに値するものたらしめる。これが俊輔の
俊輔は目の前にいる悠一を、彼の美しい精神がようやっと受肉した姿だと考えた。《しかし俺の精神の形態はこんなにも美しい》と彼は傍白する。
するとそこに同時に見出されるのが、《彼自身の本質的な情熱》である。
彼の肉体、および気質から切りはなされて、
さて、本質的な情熱とは客観的な情熱のことである。《自分自身および他人に対する客観的な関係の認識》は趣味性の条件であり、俊輔はそれを小説の裡にはもっているが、生活には精神を附添わせていないため、なかった。もし彼が小説を書くときの《自他に対して偏見のない客観的な態度が却ってひとたび現実を相手にするとその客観性自体が現実を自由に変改する情熱に化身する》のであるが、精神と肉体、および気質が切りはなされていたことにより《外界と内面に対するまことに不手際な痙攣的な関係》の認識しか、培われてこなかった。趣味性は、生活の上にまで小説を書くときと同じ客観的な指導力をもたらして、生活を小説世界と地続きのものにしてしまおうとする精神の作用である。精神が肉体をみつけた。今こそ精神を現実にもち出し、但し気質には附添わずに、悠一の気質に附添わせて現実を変更しようとする情熱は、彼にとって本質的な情熱であり、念願であることは疑いを容れない。
悠一の肉体を素材にして俊輔の美しい精神にのぞみ、悠一の生活を素材にして俊輔の芸術にのぞむ。《この企てが、俊輔の生れてはじめて所有したと思われる形式》すなわち彼自身の肉体《に化身せざる思想の母胎になったのである》。
《芸術家が素材に対する愛ほど、肉慾と精神的な愛との完璧な結合、この二つのものの紛れやすい境界はなかった》。彼は悠一を愛しはじめる、すなわち、彼はみなしとしてわがものでありわが精神の宿りである彼自身の肉体を愛しはじめる。彼は彼自身の肉体に悠一のそれを見ている。精神の塑像であるところのこの肉体に精神的な愛を捧げつつ、しかも自分の肉体に官能的な弾力をおぼえている。《制作の行為における官能性のかくも偉大な力を、》俊輔ははじめて感じるのであるが、これは、言ってみれば自分自身の肉体に惚れ、あまつさえ欲情さえするナルシシズムである。俊輔は新たな肉体を持して《孤独な書斎の生活に立ち還った》。《芸術ははじめて》美しい肉体をもった《檜俊輔の実践倫理になった》のである。
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