第三章 亀裂の兆し
都会の朝は、いつもと変わらぬ喧騒で始まった。伊武晴菜は満員電車に揺られ、生気のない顔で吊り革に掴まっている。周囲の人間もまた、同じように無表情でスマートフォンに目を落としたり、虚空を見つめたりしている。誰もが、見えない何かに急かされるように、それぞれの目的地へと運ばれていく。
(日常……か)
数日前、あの寂れた終着駅で出会った奇妙な二人組――寺嶋茉輝と馬蓮堂仁夏。彼らとの出会いは、まるで白昼夢のようだった。しかし、その記憶は鮮明で、晴菜の心に棘のように刺さったままだった。
「お姉さん、死んだ魚みたいな目をしてるね」
「アタシと、同じ匂いがする。壊れちゃった匂い」
仁夏のハスキーな声が、不意に耳元で蘇る。その度に、晴菜は自分が今いるこの現実が、薄っぺらい書き割りのように感じられた。
勤務先のオフィスは、ガラス張りの近代的なビルの中にある。晴菜の仕事は、ウェブコンテンツの企画制作。聞こえはいいが、実際はクライアントの無理難題と、終わりの見えない修正作業に追われる日々だ。
「伊武さん、例のバナーの件だけど、やっぱりもう少しインパクトが欲しいって先方が言っててね。もっとこう、ドカンと目を引くような感じでお願いできるかな?」
上司の言葉は、いつものように曖昧で無責任だ。以前なら、内心で舌打ちしつつも、表面上は「承知しました」と笑顔で応じていただろう。しかし、今の晴菜には、その言葉が妙に空々しく聞こえた。
(ドカンと、ね……。この人、自分が何を言ってるのか分かってるのかしら)
ふと、仁夏の顔が思い浮かぶ。「嘘つくとき、瞬きの回数が多くなるね」。上司は、確かにいつもより頻繁に瞬きを繰り返していた。
「それで、具体的にはどのようなイメージでしょうか?」晴菜は、努めて冷静に尋ねた。
「うーん、そこは伊武さんのセンスにお任せするよ。若い感性で、ビビッとくるやつを頼むよ」
(丸投げ、か。センスって言えば何でも許されると思ってるんだろうな)
茉輝の、あの芝居がかった大仰な口調が頭をよぎる。「人生なんて所詮、誰かが書いた三文芝居みたいなものじゃない?」。確かに、このオフィスで繰り広げられている会話も、滑稽な三文芝居の一場面に過ぎないのかもしれない。
その日の昼休み、晴菜は一人で公園のベンチに座り、コンビニで買ったサンドイッチを頬張っていた。ふと、目の前を小さな女の子が母親と手をつないで通り過ぎる。その姿が、仁夏と重なった。
(あの子は、今頃何をしているんだろう)
茉輝と仁夏。彼らは一体、どんな生活をしているのだろうか。「アタシたちの場所、面白いよ。壊れたものが、いっぱいあるから」。仁夏の言葉が、再び晴菜の胸をざわつかせた。
「壊れたもの」とは、一体何なのだろう。そして、なぜそれが「面白い」のだろうか。
ここ数日、晴菜は仕事の合間を縫って、インターネットであの駅の周辺について調べていた。特に手がかりになるような情報はなかったが、いくつかの寂れた商店街や、古い寺社が点在していることが分かった。茉輝が別れ際に指差した方向には、再開発から取り残されたような古い木造家屋が密集する地区があるらしかった。
(まさか、あんな場所に……?)
自分でも、なぜこんなことをしているのか分からなかった。ただ、あの二人のことが頭から離れないのだ。彼らが発する、社会の規範から逸脱したような自由さと、それでいてどこか切実な生き様が、晴菜の心を捉えて離さない。
抱えている仕事のトラブルは、依然として解決の糸口が見えないままだった。クライアントからの度重なる要求変更、社内での責任の押し付け合い。晴菜は、心身ともに疲弊しきっていた。
(澱には澱の生き方ってもんがあるの……か)
茉輝の言葉が、ふと脳裏をよぎる。今の自分は、まさに社会の澱の中で溺れかけているのかもしれない。だとしたら、いっそ――。
その週末、晴菜は無意識のうちに、数日前に降り立ったあの終着駅行きの電車に乗っていた。特に目的があったわけではない。ただ、何かに導かれるように、足が勝手にそちらへ向かったのだ。
駅に降り立つと、数日前と変わらない、うら寂れた空気が漂っていた。晴菜は、茉輝が指差した方向へと、ゆっくりと歩き出した。古びた商店街を抜け、細い路地へと入っていく。そこは、まるで時間が止まったかのような空間だった。傾きかけた家々、錆びついたトタン屋根、人の気配のない空き地。
(本当に、こんな場所にいるのだろうか……)
不安と、それ以上に奇妙な高揚感が入り混じる。自分は一体、何を探しているのだろう。あの二人を見つけ出して、どうしようというのだろう。
不意に、どこからか子供の歌声が聞こえてきた。それは、どこかで聞いたことのあるような、少し調子っぱずれな童謡だった。そして、その声には聞き覚えがあった。
(まさか……)
晴菜は、吸い寄せられるように声のする方へと足を速めた。路地をいくつか曲がると、小さな空き地の前に出た。空き地の真ん中には、古タイヤで作られたブランコがあり、そこで一人の少女が、楽しそうに歌いながら揺れていた。
ぶかぶかの男物のシャツ。切り揃えられたおかっぱ頭。そして、あのハスキーな、一度聞いたら忘れられない声。
「……仁夏ちゃん?」
晴菜が声をかけると、少女は歌うのをやめ、ゆっくりとこちらを振り返った。その大きな瞳が、晴菜の姿を捉える。
「あ」
仁夏は、小さく声を漏らした。そして、次の瞬間、その顔に、あの愛くるしい、それでいてどこか底の知れない笑みを浮かべた。
「お姉さん、やっぱり来たんだね。アタシ、待ってたよ」
その言葉は、まるで全てを見透かしていたかのように、晴菜の心に深く響いた。日常という名の仮面劇に、確かに亀裂が入った瞬間だった。
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