澱の住処ダイアリー ~三丁目のアジサイが咲く頃に~

kareakarie

第一章 濁声とプラットホーム

錆の浮いた鉄骨が、傾きかけた陽の光をまだらに切り裂いている。ここが何線の何駅なのか、伊武晴菜いぶはるなは正確には知らなかった。ただ、乗り過ごした快速列車がたどり着いた、見知らぬ終着駅だというだけだ。古びた木製のベンチに腰掛け、手に持ったスマートフォンの画面を漫然と眺めている。充電は残り二十パーセント。この駅に次の上り列車が来るのは、一時間以上先らしい。詰んだな、と誰に言うでもなく呟いた。


ホームには晴菜はるなの他に人影はなく、時折吹き抜ける風が、線路脇に生い茂る雑草を揺らす音だけがやけに大きく聞こえる。都会の喧騒に慣れた耳には、その静寂がむしろ不安を掻き立てた。煙草でも吸いたい気分だったが、あいにく手持ちはないし、駅構内は禁煙の貼り紙が目立つ。


不意に、甲高い、それでいてどこか掠れたような子供の声が響いた。


「ねえ、あの女の人、カカシみたい」


顔を上げると、いつの間にか、奇妙な二人組が立っていた。一人は、けばけばしい化粧と派手な柄物のワンピースに身を包んだ大柄な男。長い髪を無造作にまとめ、晴菜はるなを品定めするような視線で値踏みしている。そして、その男の傍らには、小さな女の子がいた。年の頃は十歳くらいだろうか。切り揃えられたおかっぱ頭に、大きな瞳。着ているのは、何度も洗濯したのか色褪せた男物のシャツをぶかぶかに着て、裾を引きずっている。その瞳が、好奇心と、それ以上の何か――底の知れない冷たさのようなものを湛えて、じっと晴菜はるなを見つめていた。さっきの声の主は、この少女だろう。


「あらヤダ、ニナちゃん、そんなこと言っちゃダメでしょ。お姉さんに失礼よォ」


大柄な男――寺嶋茉輝てらしままつきと名乗るには、あまりにもその風貌が強烈だったが――が、芝居がかった仕草で少女を窘める。その声は、見た目に反して妙に高く、ねっとりとした響きを持っていた。「ごめんなさいねェ、お姉さん。この子、ちょっと口が悪くて」


「……別に」晴菜はるなは短く答え、再びスマートフォンに視線を落とす。関わり合いたくない、という意思表示のつもりだった。


しかし、少女――馬蓮堂仁夏ばれんどうになは、そんな晴菜はるなの態度を意に介する様子もなく、ずかずかと近づいてきた。そして、ベンチのすぐ前に立つと、下から覗き込むようにして晴菜はるなの顔をじっと見つめる。その距離の近さに、晴菜はるなは思わず身を引いた。少女の瞳は、ビー玉のように冷たく光っている。


「お姉さん、死んだ魚みたいな目をしてるね」仁夏になは、抑揚のない声で言った。「何かいいことでもあったの?」


「……は?」


意味不明な言葉に、晴菜はるなは眉をひそめる。子供特有の無邪気な残酷さ、というには、その言葉には棘がありすぎる。


「こら、ニナ。あんまり人をからかうもんじゃないわよ」茉輝まつきが、やれやれといった表情で仁夏になの小さな肩を掴む。「このお姉さん、きっと何かツラいことでもあったのよ。そっとしておいてあげなさいな」


「ツラいこと?」仁夏になは小首を傾げた。「ツラいことと、死んだ魚の目は、一緒なの?」


「まァ、だいたいそんな感じよ」茉輝まつきは適当に答える。「ホント、子供の疑問ってのは時々、哲学の領域に踏み込んでくるから困るわァ」


晴菜はるなは黙って二人を見つめていた。この少女は、明らかに普通ではない。その言動の端々から、まともな子供時代を送ってこなかったであろうことが窺える。そして、それを保護者であるはずの茉輝まつきは、どこか面白がっている節すらあった。


「ねえ、お姉さん」仁夏になが再び口を開く。今度は、少しだけ声のトーンが柔らかくなったような気がした。「アタシと、同じ匂いがする」


「匂い?」


「うん。壊れちゃった匂い」


仁夏になはそう言うと、ふふ、と小さく笑った。その笑顔は、確かに子供らしい愛くるしさを湛えているのに、どこか背筋が寒くなるような歪さを感じさせた。


「ちょっと、ニナちゃん、そんなこと言ったら、このお姉さん、本気で怒っちゃうわよ」茉輝まつきが慌てたように言ったが、その口調はやはりどこか楽しげだ。「ごめんなさいね、本当に。この子、ちょっと……感受性が強すぎるというか、見えなくていいものが見えちゃうタチで」


「見えなくていいもの、ね」晴菜はるなは、ようやくまともに言葉を返した。「例えば、何が見えるっていうんですか?」


挑発するつもりはなかったが、自然と声が低くなる。この子供の異様さの正体を見極めたいという、奇妙な衝動に駆られていた。


仁夏になは、茉輝まつきの背後に隠れるようにしながら、しかし視線は逸らさずに晴菜はるなを見つめ続ける。「お姉さんの後ろにね、黒くて大きな影が、ずーっと憑いてるの」


「影、ですか」晴菜はるなは、思わず自分の背後を振り返った。もちろん、そこには傾いた西日が作り出す自分の影以外、何もない。


「馬鹿馬鹿しい」吐き捨てるように言うと、晴菜はるなは立ち上がった。「あなたたち、暇なんですね」


「あら、心外だわ。アタシたちは、いつだって真剣そのものよ。ねえ、ニナちゃん?」


茉輝まつきの言葉に、仁夏になはこくりと頷く。その小さな顎が、妙に大人びて見えた。


「お姉さん、急行列車、行っちゃったんでしょ?」仁夏になが、ふと尋ねた。


「……ええ、まあ」


「じゃあ、時間、いっぱいあるね」


「だとしても、あなたたちと過ごすつもりは毛頭ないけど」


「あら、つれないこと言わないでちょうだいよ」茉輝まつきが、大げさに身をくねらせる。「せっかくこうして、何かのご縁で出会ったんだもの。これも運命のイタズラってやつじゃない?」


「運命のイタズラ、ですか」晴菜はるなは鼻で笑った。「私、そういうの信じないタチなんで」


「あらそうなの? アタシは結構好きよ、そういうベタなやつ。だって、人生なんて所詮、誰かが書いた三文芝居みたいなものじゃない? どうせなら、面白おかしく踊ってやろうじゃないのって思うわけ」


茉輝まつきの言葉には、奇妙な説得力があった。それは、彼自身がそうやって生きてきたという、一種の凄みのようなものから来ているのかもしれない。


「……次の列車まで、まだ時間はある」晴菜はるなは、腕時計に目を落としながら言った。「少しだけなら、付き合ってあげてもいいですけど」


なぜそんなことを口走ったのか、自分でもよく分からなかった。ただ、この二人組から目が離せないでいる自分に気づいていた。特に、あの小さな少女――馬蓮堂仁夏ばれんどうにな。彼女の濁った瞳の奥に潜むものに、強く惹きつけられているような気がした。


「ホント? やったぁ!」仁夏になが、子供らしい歓声を上げた。しかし、その喜びように反して、瞳は少しも笑っていない。


「じゃあ、決まりね」茉輝まつきが、パン、と手を叩く。「とりあえず、こんな寂れた駅で油を売ってても仕方ないし、どこかでお茶でもしない? もちろん、お姉さんの奢りで」


「なんで私が奢らなきゃいけないんですか」


「あら、年長者への敬意ってものを知らないの? ま、いいわ。今日は特別に、アタシが奢ってあげる。ただし、面白い話の一つでも聞かせてもらうわよ、お姉さんの『壊れちゃった匂い』の元になった、とびっきりのやつをね」


茉輝まつきはそう言うと、にやりと笑った。その笑顔は、どこまでも胡散臭く、そして抗い難い魅力に満ちていた。


晴菜はるなは、小さくため息をついた。どうやら、厄介なものに捕まってしまったらしい。しかし、不思議と不快ではなかった。むしろ、この先の展開が少しだけ楽しみになっている自分がいることに、晴菜はるな自身が一番驚いていた。


夕暮れのプラットホームに、錆びた車輪の軋む音が遠くから響いてきた。それは、この奇妙な出会いを祝福するファンファーレのようにも、あるいは、これから始まる何かの序章を告げる不吉な合図のようにも聞こえた。

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