第2話 未

 晴れやかに澄み渡った青い空。


 その空を背に、群れ立って飛んでいく数羽の鳥を見上げ、ヒャンは目を細めた。


 降り注ぐ陽に春の到来を感じるが、風はまだ冷たい。盛りの頃には庭園いっぱいに咲き誇る躑躅つつじも、まだ蕾をつける気配はない。


 ヒャンは手入れの行き届いた庭に佇み、遠く北の空を見晴るかした。静かな風が流れる度に、白と紫の袖がふわりと広がる。


 透き通るような白い肌に、すっきりとした目鼻立ち。きれいに結われた黒い髪には上品な髪飾りが挿され、対になった耳飾りがしゃらりと揺れる。腰まで垂らされた長い髪は、日の光を浴びて艶やかに煌めいている。

 今はどこか憂いを秘めているような横顔にすら、見る者をはっとさせる美しさがある。


 ヒャンにとって、春は一年の中で一番好きな季節だ。本来であれば今が一番心躍る時期なのだが、今はそうもいかない。


 ばさばさっ。


 突然背後で響いた音に、ヒャンはびくりと肩を震わせた。ゆっくりと背後を振り返り、後ろに植えられた木を凝視する。


 まだ蕾がついたばかりの枝が微かに揺れている。何のことはない。先程までその枝に止まっていた鳥が羽ばたいただけ。ただ、それだけだ。

 ヒャンはそう自分に言い聞かせ、小さく頭を振った。


 知らず知らずのうちに硬く握りしめていた手をゆっくりと解き、何度も開いたり閉じたりを繰り返す。長く風に当たり過ぎたせいもあるかもしれない。強張った手には血の気がなく、冷え切っていた。


 飛び立つ音。落ちる花びら。いつもはしない失敗に、ぷくりと指先に膨らむ小さな血。


 虫の知らせというのは、どこに転がっているのか分からない。あの時見逃していなければ―――、そうならないようにしたいと思うからこそ、そんな些細な一つ一つにいちいち心が波立ち、焦燥感だけが広がってどうしようもなくなる。


 ヒャンは近頃、そんな日々を繰り返している。心を占める心配事が、無意識のうちにそうさせるのだ。


 ヒャンが案じているのは、戦の陣頭で指揮を執る夫と、この光海国こうかいこくの行く末である。


 夫であり、光海国を統べる首長しゅちょうのファン・ユノが隣国との戦に出てから、既に数カ月が経とうとしていた。戦は、国境付近での一進一退の攻防戦を続けていると聞く。しかし、先日入った知らせによると、光海国の兵の疲弊は激しく、厳しい状況になっているようだ。


 心を落ち着けようと、ヒャンは綺麗に整えられた庭園の中に伸びる小道に足を伸ばした。こうして外を歩けば、少しは気が紛れるかもしれない。


 ヒャンは光海国を治めるユノの妻であり、首長妃しゅちょうひである。若くして首長の座を継ぎ、よわい二〇を少し過ぎたばかりのユノが光海国を守るために苦心しているのは、その周りを取り囲む三景さんけいの情勢に深く起因していた。


 光海国は三景の一つ、蔡景さいけいの南の端にあり、それ程大きくはないが海に面した自然豊かな場所だ。その光海国がある蔡景の周りには、尚景しょうけい冲景ちゅうけいと呼ばれる地域が続いており、蔡景と合わせて広大な範囲に及ぶこれらの地域は、総称で「三景の地」と呼ばれている。


 三景は、遠い昔は一つの国だったと言われ、そのためか、今でも三景統一を狙う国が多く、蔡景だけでなく、尚景、冲景でも、戦が絶えないと聞いている。いつから始まったのかも分からない戦乱の世が続く中、蔡景には特に大小合わせて多くの国が乱立しており、日々新しい国が生まれ、滅び、覇権争いが激化していた。


 競い合うように蔡景、引いては三景の掌握を狙う国々がある中で、自国を守るのは容易なことではない。時には武器を持つことも必要となる。

 光海国が他国と戦になることも少なくなく、その度にユノは軍を直接指揮し、先陣を切って戦ってきた。


 その戦略に長けた戦いぶりは勇ましく、蔡景のみならず、三景全土から「蔡景の南に獅子あり」と謳われるまでの存在となっていると聞く。


 南を海に囲まれた光海国が、自国の領土を守り、小さいながらもここまで豊かな国を築けたのは、首長であるユノの力に他ならない。


 ヒャンは小さく息をつき、北の空を見上げた。


 ユノが戦に優れていることは、ヒャンも勿論知っている。だが、今回ばかりはそう簡単にはいかないだろうと覚悟していた。何せ、相手は北の大国、紫微国しびこくなのだ。


 紫微国は光海国よりも遥かに大きな国で、ここ数年、凄まじい勢いで領土を拡大し続けている大国だ。北の国境を隣接する紫微国の勢いをユノは常に警戒し、その動向を注視していた。


 その侵略の手がついに南に伸びてきたのは、冬に入る前のことだった。ただでさえ戦いにくい冬に、数で劣る光海国が戦を乗り切るには、最初から不利な状況である。それを狙って攻めてきたことが分かっていても、光海国の民を守るためには戦わないわけにはいかない。


 紫微国の王であるクァク・ソンドは冷徹な男で、目的のためなら実の親兄弟でも切って捨てるという噂もある。紫微国の侵入を許せば、光海国の中心部であるこの場所を落とすまで、多くの民の命が犠牲になるだろう。


 どうか、ユノ様が無事に帰還されて、光海国の民の命が守られますように。


 切実な願いを込めて、再び北の空を見上げる。


 時には命を賭して国を守る義務がユノにあることを、ヒャンは心得ている。ヒャンよりいくつか年嵩としかさのユノが、幼い頃から国や民にかけてきた深い思いも知っている。


 妻として、光海国の首長妃として、もっとできることがあればいいのに、願うことしかできない自分が不甲斐ない。


 視線を落として短く嘆息し、庭園を出ようと振り返った時、向こうから足早にやってくる人影が目に入った。


「ヒャン様!」


 駆けるようにやってきたのは、姉妹のように育った侍女のユンファだ。


「ヒャン様、こちらにいらっしゃいましたか」

「ユンファ、どうしたの?」


 青い顔で息を切らすユンファの様子にただならぬものを感じ、ヒャンの声が剣を帯びる。


「それが……、」と口籠るユンファに、ヒャンの背中を冷たい汗が滑り落ちた。不吉な予感が駆け抜け、ヒャンは両手を握りしめる。


「それが、その、首長様がお戻りになったのですが―――……あ、ヒャン様!」


 ユンファの次の言葉を待たず、ヒャンはその場から駆け出した。庭園を抜け、殿閣に続く回廊を走るように進む。


 軍の凱旋の知らせは受けていない。急遽ユノだけが戻ったということが、何よりもの異変を告げているとしか思えない。


 気だけが急いて、変に息が上がる。ヒャンはユノの居所へと急いだ。


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