第21話『ルーク、クールに出した』

 朝の光が、レースのカーテン越しにリビングへと差し込んでいた。

 その陽だまりの中に、アフガン・ハウンドのルークがいた。

 流れるようなイエローの長い毛並みを揺らしながら、カーペットの上で優雅に伏せている。

 まるで一枚の絵のように静かなその姿とは裏腹に、飼い主の心は、朝からざわついていた。


 原因は、昨夜から行方不明になっている“アヒルのオモチャ”。

 黄色くて、ピーピーとよく鳴く、小さなラバー製のそれは、ルークがもっとも愛していたオモチャだった。


 初めてそのオモチャをプレゼントした日のことを、飼い主はよく覚えている。

 おっとりしたルークが、目を見開いてアヒルに鼻を近づけ、そっと一鳴きさせたあの瞬間——

 「……ピーピーッ!」という音に驚いたのか、それとも嬉しかったのか、ルークは突然くるくると回りだしたのだ。

 長い耳をふわふわとなびかせながら、子犬のように部屋中を駆け回った。

 それは珍しく感情を大きく表に出した瞬間で、飼い主は思わず「そんなに気に入ったの!?」と笑ってしまった。


 それからというもの、ルークはそのアヒルをまるで宝物のようにくわえて運び、眠るときもそばに置くようになった。

 まさに“一番のお気に入り”。

 ……だったのに、そのアヒルが突然、姿を消したのだ。


 家中を探しても見つからない。

 ソファの下、ケージの中、カーテンの裏、観葉植物の鉢の中にまで手を突っ込んだが、どこにもいない。

 そしてふと脳裏をよぎった最悪の可能性——「まさか、飲み込んだんじゃ……?」


 ルークの様子は変わらない。

 今日も朝から優雅にカーペットに伏せて、風を受けるプリンスのような顔をしている。

 けれどその静けさが、かえって不安をあおる。


 そのまま散歩に出かけたが、ルークはいつも通りだった。

 すらりと伸びた四肢で石畳を踏みしめ、耳と毛並みを風になびかせながら歩くその姿には、何の異常も見られない。

 むしろ「こんなに元気なら気のせいだったか」と思えるほどに、堂々としていた。


 ……だが、事件はその終盤に訪れた。


 ルークがいつもの木陰に腰を下ろし、用を足しはじめた時のこと。

 飼い主がビニール袋を手にしゃがみ込んだその瞬間、袋越しに感じた奇妙な感触。


 「ん……? これ……」

 小さく、軽く、かすかに音がした。

 カラッ……と、何かが転がるような乾いた音。


 慎重に中身を確認すると——そこには、

 少しだけ汚れてはいたが、まぎれもなく、あのアヒルの姿があった。


 「出たーっ!!」


 思わず叫んだ飼い主の声に、ルークがゆったりと振り返る。

 まるで「どうかしましたか?」と言いたげに、長いまつげの奥で瞳を細めている。


 その表情があまりにも澄んでいて、笑いが込み上げてきた。

 焦り、心配し、夜中まで探して、眠れなかった自分は一体なんだったのだろう。


 帰宅後、アヒルは丁寧に洗われ、しかし再びルークに渡されることはなかった。

 ありがとう、と小さく声をかけてから、飼い主はそっとゴミ箱の奥に手を伸ばした。


 その晩、ルークはいつも通りお気に入りのクッションの上で丸くなり、

 飼い主はその横顔を眺めながら、ぽつりとつぶやいた。


 「元気に出てきてくれて、よかったよ」


 その言葉を聞いたかのように、ルークのふさふさの尻尾が一度だけ、静かに揺れた。

 

窓の外には、夜風がそっと吹いていた。

 今日という一日が、無事に終わったことに、小さく安堵するように。


——その風は、ルークの名をそっと運んでいった。

 記した名の先に、ミトハの気配があった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る