第20話『リンと呼ばれた音のほうへ』

 部屋に風が通り抜けた。

 窓の隙間から入ったその風は、少しだけ湿った匂いを連れてきた。

 ソファに座っていた私は、何もしていなかった。ただ、ぼんやりと、揺れるカーテンを見つめていた。


 「……リン」


 ふと、呼んでしまった。

 声に出すつもりはなかったのに、舌の先が勝手に動いていた。

 何の前触れもなく、ふいに、その名前が口からこぼれ落ちた。


 すぐに、「あ」と思った。

 けれど、すぐに何かが変わったわけではない。

 静かなままの部屋。ただ、どこかで——ほんの一瞬だけ、音がした気がした。


 それは、鈴の音のような。

 とても小さくて、気のせいと言えばそれまでの。

 でも、私は知っていた。その音を。

 それは、鈴(リン)の首輪についていた、小さな金の鈴の音だった。


 ——リンがいたのは、つい最近のことのようにも思えるし、

 ずっと昔のことのようにも思える。


 あの子は、アメリカンコッカースパニエルだった。

 くりくりとした瞳と、長く垂れた耳。

 陽だまりのような、やわらかいバフ(クリーム色)の毛並みは、

 いつも私の手をすべるように撫でさせてくれた。


 日向で眠っているときは、まるで溶けたバターのようにあたたかくて、

 抱きしめたときの重さまで、まだ腕に残っている気がする。


 リビングの隅には、いまもあの首輪がある。

 金具の部分が少しすり減っていて、革の内側には彼女の毛がほんのすこし、まだ残っている。


 洗おうと思ったこともあったけど、結局そのままになっていた。

 誰にも触れられないように、ただ、そっとそこに置かれている。


 風が、もう一度部屋を通った。

 カーテンがふわりと揺れて、薄く光が差し込んだ。


 私はゆっくりと立ち上がって、首輪の置かれている棚に歩み寄った。

 指先が近づいたとき——たしかに、音がした。

 「リン」と、まるで名前を呼ばれたような、小さな響き。


 私はそれを手に取って、しばらく耳元で鈴を鳴らしてみた。

 ……やっぱり、よく鳴る。

 前と変わらない、澄んだ音。

 あの子が駆け寄ってきたときに、いつも響いていた音。


 「ねぇ、リン。……やっぱり、聞こえてた?」


 私はそう言って、笑ってしまった。

 自分でも少しおかしいと思う。でも、そうでもしないと、胸がきゅっと苦しくなるような気がして。


 ——声は届かなくても、

 きっと、名前はどこかに響いている。


 風に乗って、余韻のように。

 記憶のどこかに、やさしく。


 たとえばそれが、もうここにいない存在だったとしても。

 名前を呼ぶということは、「いま、あなたを想っている」ということなのだ。


 私はもう一度、鈴を鳴らした。

 そして、小さく「ありがとう」とつぶやいて、棚に戻した。

 カーテンの向こうで、風が音をたてた。

 あの子が、またどこかで笑ってくれているような気がした。

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