第6話『ビートと、朝の風を追いかけて』
黒い毛並みに、つぶらな瞳。
しっぽをぶんぶん振って、ガラスの向こうからこちらを見ていた。
「里親募集中」という紙が、海沿いの小さな家の門に貼られていた。
越してきたばかりの男が、ふとその子犬と目を合わせた。
彼の名前は、まだなかった。
けれど、もう風の中には、確かな気配があった。
彼——黒いラブラドールの子犬は、生後三か月。
やがて彼は“ビート”と名づけられ、ひとりの男の家族となった。
男は38歳。在宅勤務。
夜型の暮らしに慣れきって、運動も縁遠くなっていた。
でもその日、黒い子犬を見て、思ったのだ。
——せっかく郊外に越してきたんだ。
犬との生活を始めてみるのも、悪くないかもしれない。
少しは、変われるかもしれない。
その予感は、風の中にも流れていた。
それからの日々。
ビートは、毎朝6時きっかりに彼を起こした。
しっぽを振り、弾むような足取りでリードを引く。
最初は眠気と寒さに負けそうだった彼も、
ある朝、気づいたのだった。
——海から吹く風が、やけに気持ちいいことに。
耳元を抜ける風、遠くの波、かすかな潮の匂い。
その静けさとやさしさに、少しずつ心がほぐれていく。
ある日、ビートが足を止めた。
視線の先には、サーフボードの上で波に乗る人たち。
ビートは、しっぽを揺らしていた。
まるで、「ボクもやってみたい」と言うように。
彼は笑った。
「おいおい、犬がサーフィンかよ」
けれど、その朝から、ビートはいつもそこに立ち止まり、
波と風を見つめるようになった。
そして、ついに彼は口にした。
「……そんなに見てたいなら、一緒にやってみるか?」
半分冗談、半分本気。
気づけば彼は、ボードとウェットスーツを借りていた。
初挑戦は、ひどいものだった。
バランスは崩れ、波に飲まれ、鼻に水が入り、何度も転んだ。
でも——その隣で、ビートは見事に波に乗っていた。
まっすぐ立ち、風を受け、耳をなびかせながら。
ボードの上で、彼はゆっくりと浅瀬へと戻ってきた。
彼は思わず言った。
「……なんで犬のほうが上手いんだよ……」
けれど、その笑い声は、風とともに広がっていった。
それから、毎朝が勝負になった。
ビートは先にボードに飛び乗り、
「こうやるんだよ」と言わんばかりに振り返る。
彼が転ぶたび、ビートは波の上で一度だけ尻尾を振る。
それが、「ドンマイ」と言っているように見えた。
数週間後。
ほんの一瞬だけ、彼は波の上に立てた。
ビートと同じ高さで、同じ風を感じた。
潮のにおい。波のリズム。
朝焼けの空。
風が、ゆっくりと彼の胸を吹き抜けていった。
——風って、気持ちいいな。
彼はそうつぶやいた。
浜辺で体を拭きながら、彼はビートに言った。
「なあ……お前が来る前までは、朝なんて大っ嫌いだったんだぞ」
ビートは、鼻を鳴らして彼の肩に顔を乗せた。
海から吹く風が、やわらかく頬を撫でた。
少し塩っぽくて、でもあたたかい。
それ以来、彼らは毎朝、風を追いかけている。
転んでも、波にのまれても、また立ち上がればいい。
ビートが教えてくれた。風と笑う方法を。
——風って、いつだって前から吹くわけじゃない。
でも、それでもいい。
今日も、彼らは朝の風の中にいる。
*
名前を呼ばれたあの日から、
その名が風の中に残っている。
それを記すことが、わたしのしごと。
——ありがとう、ビート。
今日も、ちゃんと風が吹いている。
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