第48話 引っ越しと間取り
三月のはじめ。
青並市の空気はまだ冷たいけれど、日差しだけは、冬の終わりと春の始まりが混ざり合ったような柔らかさを帯びていた。
俺は、アパートの床に積まれた段ボールの山を見下ろして、ひとつ息を吐いた。
理工学の専門書。取り扱い説明書。工具。最低限の服。
中身はそれだけだ。
段ボールは、たった四箱。
「……うん。これで全部だな」
自分で口にしてみて、改めて苦笑する。
決して汚くはないが、ひどく殺風景なワンルーム。
きれいに畳まれた洗濯物。壁際に積まれた、背表紙の色が褪せた専門書と、無骨な工具箱。テーブルの上には、読みかけの自動車雑誌が律儀に揃えられている。
生活感に乏しい、俺の趣味と真面目さだけが詰まった、無味乾燥な空間だ。
《ふふっ。今のうちに写真、撮っておきませんか? “ご主人様・一人暮らしワンルーム時代”の記録として》
ポケットの中から、スマートキー越しにアンナの声が響く。
「引っ越し記念写真にしても、地味すぎるだろ」
《だって、もうすぐ“新居のご主人様”になるんですよ?》
少しだけ得意げなトーンだ。
新しい職場は、研究学園エリアから少し外れた工業団地の一角にあるIT系企業。
その通勤圏内に、家賃と駐車場代がギリギリ許容できる1DKの部屋を見つけたのは、先月のことだ。
1DKは六畳。奥の居室も六畳。引き戸一枚で仕切られた、小さな「一人用巣箱」。畳でもフローリングでもいい。
俺にとって重要なのは、机を置けて、布団を敷けて、工具箱をきちんと置けるだけのスペースがあること。
《今のワンルームより、少しだけ広くなりますね。ダイニングとキッチン、寝室兼作業部屋。レイアウトはもう決めましたか?》
「決まってる。机と布団と棚置いたら、あとは余白がちょっとできるくらいだろ」
《相変わらず、必要最低限ですね……。でも、そういうところ、嫌いじゃないです》
「ほめてるのか、それは」
《もちろんです、ご主人様》
アンナの声は、以前よりずっと柔らかい。
二年という時間は、ナビの人格すらも、少しずつ丸くしていくらしい。
「そういえば」
段ボールの山を一つ蹴飛ばさないように跨ぎながら、俺は窓の外に目をやった。
「レイナの方は、まだ物件決まってないんだよな?」
《はい。先日も、不動産会社で何件か資料をもらってきたとおっしゃっていました。“職場までチャリで通える距離がいい”とか》
「らしいよな、あいつ」
レイナの就職先は、郊外の研究施設と一緒に歴史資料をアーカイブしている機関――いわゆる「公文書館」みたいなところだ。
周囲は工業団地と倉庫が多く、飲食店は少ない。
だからこそ、普段の生活を考えると、少し離れた、スーパーや病院のある「街」の側に住んだ方がいい。
《本日は、その“物件検討会”ですね?》
「ああ。ファミレスで。……レイナ、パンフレット山ほど抱えてたし」
《良いですね。物件の間取りを見ながら将来の生活を語り合う……まさに“新生活準備フラグ”です》
「そういうメタな言い方すんなって」
《では、そろそろ出発のお時間です。ご主人様。まずはレイナ様をお迎えして、いつものファミレスまでナビゲートいたします》
「頼むよ、相棒」
俺は最後に一度だけ、殺風景なワンルームを見回した。
そして、スマートキーを握り直し、部屋を後にした。
* * *
アパート近くの月極駐車場でA-BOXに乗り込むと、エンジン音に続いてアンナの声が車内に満ちる。
《おかえりなさいませ、ご主人様。本日の目的地は“いつものファミレス”ですね?》
「そう。“いつもの”で通じるナビってどうなんだ」
《データベースに“行きつけタグ”を付けていますので》
「勝手にタグ管理すんな」
そんな軽口を交わしながらレイナの宿舎へ向かい、玄関前でクラクション代わりにハザードを二回点滅させる。
すぐに玄関ドアが開き、見慣れたコート姿が小走りで出てきた。
「ごめん、待たせた?」
「いや、ちょうど今来たところ。荷物多いな」
「不動産屋さんでもらった資料、一応全部持ってきちゃった」
レイナは、パンフレットの詰まったトートバッグを抱えたまま助手席に座る。
《レイナ様、本日もご乗車ありがとうございます》
「うん、アンナちゃんもよろしくね」
そのやり取りを聞いた途端、ナビ画面のメイド姿が、ほんの少しだけ胸を張ったように見えた。
* * *
昼のファミレス。
いつもの四人掛けテーブルに、今日は俺とレイナだけ。
テーブルの半分は、ハンバーグとグラタンとドリンクバーのグラス。
もう半分は、不動産屋のパンフレットと間取り図でぎっしり埋まっていた。
「……本当に、全部持ってきたな」
「いるかなと思って」
レイナは、真剣な顔で一枚一枚の間取り図をめくっていく。
「ここは職場から近いけど、1Kで洗濯機が外置きなんだよね。チャリで十数分行ける距離だけど、冬の夜はちょっとつらそう」
「雨の日もな。洗濯機ベランダは地味にストレスだぞ」
「やっぱりそう?」
次の紙をめくる。
「ここは1DKで、家賃がちょっと高め。でも、スーパーと病院が近くて、静かそうな住宅街」
白い指が、六畳のDKと六畳の洋室を指し示す。
「……ここ、いいんじゃないか?」
思わず本音が漏れた。
「1DKあれば、テーブル置いてもそこそこ余裕あるし。居室は布団と本棚置いてもなんとか。職場までもチャリで十五分だろ?」
「そうだね。間取りだけ見てると、一番バランスがいいかも」
レイナがうん、と頷く。
「でも、家賃がね……。月に数千円の差だけど、長く住むこと考えると悩むところ」
「数千円ケチって、毎日『寒っ』って言いながら外の洗濯機回すよりはいいんじゃないか?」
「現実的な説得だ……」
レイナは苦笑しながら、間取り図の端に小さく印をつけた。
そのしぐさを見ていたら、妙な想像が頭をよぎる。
――この1DKのDKに、小さなテーブル。
向かい合って座る二人分の食器。
居室の隅には、本棚と布団と、見慣れたノートパソコン。
そこに立っている自分の姿が、あまりにも自然に浮かんでしまって、慌てて頭を振った。
「……どうしたの?」
「いや、何でもない。生活イメージは大事だよなって」
誤魔化すように、グラスのストローをくるくる回す。
「君の方は、もう決まってるんだよね、新しい部屋」
「ああ。会社の近くの1DK。駅から離れてる分、ちょっとだけ広くて安い」
「ワンルーム卒業だ」
「まあ、ダイニングとキッチン増えただけだけどな。相変わらず物は少ないし」
「でも、ちょっとだけ“遊び”ができるんじゃない?」
「遊び?」
「ほら、テーブルを少し大きくしてみるとか。本以外のものを置いてみるとか」
レイナは、ストローをつまみながらいたずらっぽく笑う。
「たとえば――」
「待て、その先は何となく察するから言うな」
「ふふっ」
俺のツッコミに、レイナはくすっと笑って、パンフレットを閉じた。
「でも、嬉しいな」
「何が?」
「こうやって、“新しい生活の話”を、自然にできてること」
その言葉は、ドリンクバーの氷よりずっと静かに、胸の奥に染みていく。
「……そうだな」
気の利いたことは言えない。
けれど、素直にそう返すことだけはできた。
* * *
ファミレスを出る頃には、駐車場のアスファルトが冷えきっていた。
A-BOXに乗り込むと、アンナがいつもの調子で出迎える。
《お帰りなさいませ。お二人とも、“物件検討会”はいかがでしたか?》
「盗み聞きしてたのか?」
《いえいえ。私は車内で静かに待機していただけです。ただ、スマートキー越しに、ところどころ“将来の生活”というワードが聞こえてきた気がして……》
「気のせい、気のせい」
俺が即座に否定すると、助手席のレイナがくすっと笑った。
「でも、聞かれても困るような話はしてないよね?」
「まあな」
《ふふっ。では、安心して“今後のルート設計”をお任せください》
「ルート?」
《お二人の新しい生活拠点は、それぞれ違う場所になります》
アンナは、少しだけ真面目な声色になった。
《でも、車で三十分から四十分。渋滞がなければ、十分に“会いに行ける距離”です》
「……そうだな」
研究学園近くの俺の新居と、郊外のレイナの新しい部屋。
その間を結ぶ道筋が、脳内地図の上にゆっくり浮かび上がる。
《ですから、ご主人様。これからも、時々は“共同ルート”を設定してくださいね》
「共同ルート?」
《はい。たとえば、“月に一度はどこかの道の駅に行く”とか、“新しい街のラーメン屋さんを開拓する”とか》
ナビのくせに、妙に人間臭い提案をしてくる。
「……レイナは、どう思う?」
助手席に視線を向けると、レイナは少し驚いたように瞬きをしてから、柔らかく笑った。
「いいと思う。忙しくなっても、そういう“決め事”があった方が、会うきっかけになるし」
《決まりですね♪ では、非公式ながら、“お二人のルート・ブックマーク”に登録しておきます》
「勝手に記録するな」
《ナビの仕事ですから》
その言い方が妙に誇らしげで、少しだけ胸が痛む。
――この二年間。
俺とレイナを、何度も同じ方向に走らせてくれたのは、間違いなくこのナビだった。
「なあ、アンナ」
《はい?》
「俺が新しい部屋に引っ越して、社会人になってもさ。お前は、ここにいるんだよな」
《もちろんです》
画面の中で、メイド服の裾がふわりと揺れた。
《私はA-BOXに紐付いたナビゲーションシステムです。ご主人様がハンドルを握る限り、どこへでもお供します》
「……そっか」
その答えは分かっていたけれど、改めて聞くと、少しだけ重く響いた。
《ご主人様》
「ん?」
《新しい部屋も、新しい職場も、新しいルートも。
きっと最初は戸惑いますけど――》
一呼吸おいてから、アンナは続けた。
《ちゃんと“帰って来られる道”は、私が忘れずに持っておきますから》
その言葉に、思わず笑ってしまう。
「ナビにそこまで言われたら、迷子にはなれないな」
《はい。迷子になっても、全力で再検索します》
アンナの台詞に、助手席のレイナがふっと笑い、窓の外に目をやった。
「……じゃあ、私の新しい部屋が決まったら、また一緒に見に行ってくれる?」
「もちろん」
《もちろんです》
返事がハモってしまい、車内に小さな笑いが広がった。
A-BOXのエンジン音が、いつもより少しだけ頼もしく聞こえる。
卒業まで、あと少し。
引っ越しシーズンのざわめきの中で、新しい間取りと、新しい距離感と、変わらないナビの声。
俺はハンドルを握り直し、青並市の夕暮れの道へと車を走らせた。
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