第38話 おはようございます。はじめまして
床で寝たせいで体の節々が痛む。「いてて……」と腰をさすりながら俺が目を覚ますと、先に起きていたらしいレイナが、俺の本棚に並んだ専門書を、興味深そうに眺めていた。
「あ、あの、おはよう」
レイナも、少しだけ頬を赤らめながら、小さな声で応えた。
「……おはよう」
交わされた言葉は、たったそれだけ。なのに、部屋の空気は妙に重くて、甘酸っぱいような、何とも言えない匂いがした。
俺は何か朝食になるものはないかと、小さな冷蔵庫を開けてみた。中身は、飲みかけの麦茶のペットボトルが一本だけ。あまりの惨状に、俺は静かに扉を閉めた。
「ごめん、なんもねぇや……。腹減ったろ? この近くにファミレスがあるんだけど、そこ行かないか?」
店に入り、向かい合って席に着くと、ようやく少しだけ、いつもの空気が戻ってきた気がした。
レイナは、運ばれてきたコーヒーを一口飲むと、悪戯っぽく微笑んだ。
「昨日のメモの文字、やっぱり気になるな。……それにしても、あなたの部屋、なんだか、あなたらしい部屋だね」
「えっ、そうか? 散らかってたろ」
「ううん。物が少ないけど、一つ一つが大事にされてる感じがした。……安心する」
そう言って、ふわりと笑う彼女に、俺はまた、不覚にもドキッとしてしまう。
朝食を終え、俺たちはアパートへと戻る。
いよいよ、アンナと向き合う時が来た。駐車場へ向かう途中、俺はふとポケットを探って、立ち止まった。
「あ、やべ。キー、部屋に置いてきた」
レイナと二人、再び部屋のドアを開ける。テーブルの上に無造作に置かれていたA-BOXのキーを手に取った、その瞬間。
「……なんだ?」
プラスチックの塊に、ほんのりとした、しかし確かな『熱』が残っている。まるで、つい先ほどまで誰かが強く握りしめていたかのような、不思議な温かさだった。
俺は首を傾げたが、今はアンナのことが先決だ。その小さな違和感を胸の奥にしまい込み、俺たちは駐車場へと急いだ。
「……エンジン、かけてみるか」
俺の言葉に、レイナはこくりと頷く。
助手席に座る彼女の横顔は、真剣そのものだ。
俺は覚悟を決めて、キーを捻った。
ナビ画面が静かに起動する。だが、そこに映し出されたのは、見慣れた地図表示だけだった。
アンナの姿は、どこにもない。
「……ダメだったのか……? あのアップデートは、失敗に……」
俺の心が、ずんと重くなる。その、絶望が顔を出しそうになった、まさにその時だった。
画面の中央が、ふわりと淡い光を放ち始める。ワンテンポ遅れて、光の粒子が集まり、一つの人影を形作っていく。
じんわりと姿を現したのは、昨日までとは違う、少しだけ大人びて、フリルやレースが施された格式高いメイド服を纏った、完璧な笑顔のアンナだった。
《おはようございます、ご主人様! システムアップデートが完了いたしました! ご心配をおかけしましたわ》
戻ってきた……!
俺は、心から安堵のため息を漏らした。
「これが……アンナさん……?」
初めて見るアンナの姿に、レイナが感嘆の声を上げる。
「すごい……今のナビって、こんなに表情が豊かなの? 普通、もっと機械的なのに……」
その声に反応すると、アンナは完璧な笑顔のまま、そのアバターを助手席のレイナの方へとしなやかに向け、優雅にお辞儀をしてみせた。
《はじめまして、レイナ様。私がご主人様の専属ナビAI、アンナです。どうぞ、お見知りおきを》
「えっ、私が見えてるの!?」
助手席にいる自分に、直接話しかけてきた。その事実に、レイナは素で驚いている。
俺は少し困ったように笑いながら、説明した。
「ああ……こいつ、なんでも見えてるし、聞こえてるらしいんだ」
俺は、改めてレイナに向き直ると、少し照れながら言った。
「……せっかくだし、このまま宿舎まで送るよ」
「え、でも、悪いよ……」
戸惑うレイナに、俺は半ば強引に、でも優しく告げた。
「いいから。……それに、こいつの調子も、ちゃんと見てやりたいしな」
道中、アンナは完璧なナビゲートを披露し、当たり障りのない天気の話さえしてみせた。レイナは「本当に会話してるみたい……。全然、AIっぽくないね」と驚きの声を上げるが、その完璧すぎるやり取りこそが、俺の心に少しずつ、しかし確実に、違和感の染みを広げていく。
いつもの、過剰なお節介がない。
VICSを受信した時の、あの妙に色っぽい《ピクッ》という反応もない。そして何より、レイナが助手席にいるというのに、ヤキモチを焼く気配が、全くない。
まるで、感情という機能が、ごっそりと抜け落ちてしまったかのように。
レイナは「ありがとう、送ってくれて」と小さく会釈して、助手席のドアを閉めた。俺は、宿舎の入り口に消えていく彼女の後ろ姿を、ルームミラーで見えなくなるまで見送る。
空っぽになった助手席が、やけに広く感じる。
俺はゆっくりと車を発進させ、しばらくは無言でハンドルを握っていた。そして、最初の信号で車を停めたとき、隣のナビ画面に声をかけた。
「アンナ、本当に……何でもないのか? 前と、少し雰囲気が違うような……」
するとアンナは、新しくなった、より繊細な瞳で俺をまっすぐに見つめ、最高の笑顔でこう答えた。
《ご心配には及びませんわ、ご主人様。今回のアップデートでは、主にUI……つまり、ユーザーインターフェースが大幅に更新されましたの。この新しいメイド服や、より細やかになった表情も、全てはご主人様の視認性を高め、より快適なドライブをご提供するための機能向上の一環ですわ》
彼女の最初の、そしてあまりにも哀しい嘘。
その完璧な笑顔のアップで、物語は幕を閉じるはずだった。
俺は、彼女の言葉を信じることにして、こう付け加えた。
「そっか……。ならいいんだ。……あ、そうだ。今の場所、お気に入りに登録しておいてくれ。名前は、『レイナの宿舎』で」
《……承知、いたしました》
ほんのわずかに、ほんのコンマ数秒だけ、彼女の声が震えたのを、俺はまだ、気づいていなかった。
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