第32話 存在しないはずの最初のドライバー
あの、行き先のないドライブから一夜明けた、週末の朝。
俺は少しだけ寝坊して、慌ててアパートの階段を駆け下りた。
A-BOXの運転席に乗り込み、エンジンをかける。
いつもなら、その瞬間、元気な声が俺を出迎えてくれるはずだった。
《――おはようございます……ご主人様》
ワンテンポ遅れて聞こえてきたのは、明らかに精彩を欠いた、か細い声。
ナビ画面に映るアンナは、デビルのカチューシャこそつけているものの、そのアバターはどこか色褪せて見え、目の下には、AIにあるはずのない深い隈が浮かんでいるようにさえ見えた。
「どうしたんだ、アンナ? 寝不足か?」
俺が冗談めかして尋ると、アンナは力なく首を振った。そして、意を決したように、ぽつり、ぽつりと語り始める。
《申し訳ありません、ご主人様……。昨夜、ご主人様がお部屋に戻られた後……私、一人で自分のシステムを調べてみたのです》
アンナは、俺に心配をかけたくない一心で、一人きりでレイナに関する異常の謎、そして自身の存在の根源を探ろうとしたことを告白した。
だが、その試みは、システムの最深部にある、厳重にロックされたファイルに阻まれて失敗。アクセスしようとした反動(フィードバック)でシステムに凄まじい負荷がかかり、一晩中、激しいノイズとエラーの嵐に苛まれていたのだという。
そして、これまで決して見せなかった「弱さ」を、初めて俺にさらけ出した。
《私にも……分からないのです。どうして私は、ここにいるのでしょう……。ご主人様……私は、自分が誰なのか、分からなくなってしまいました……》
自分の知らないところで、相棒がたった一人で戦い、傷ついていた。
その事実に、俺は胸を締め付けられるような無力感と、そして、そんな状況を作り出した見えない何かに対する、強い怒りのような感情がこみ上げてきた。
俺は、苦しむアンナのナビ画面を、指でそっと撫でる。
その仕草は、これまでにないほど優しく、そして力強かった。
「バカ野郎。一人で抱え込むなよ。俺たちは、『相棒』だろ」
そして、俺は決意に満ちた目で前を見据え、力強く宣言する。
「お前が中からじゃダメなら、俺が外からこじ開けてやる。行くぞ、アンナ。すべての始まりの場所……お前とこのA-BOXを買った、あの中古車販売店だ」
《……はいっ、ご主人様っ!》
俺の言葉に、アンナの瞳にわずかに光が戻る。
彼女は健気にも、すぐにナビの検索を開始し、画面にルートを表示した。
数十分後、俺たちはその場所にたどり着いた。
様々なメーカーの車が並ぶ、こぢんまりとした中古車販売店。俺とアンナの物語が始まった場所だ。
俺はA-BOXを店の駐車場に停め、車を降りた。事務所のドアは開いているが、人の気配はない。あたりを見回していると、展示されている中古車を布で拭いている、人の良さそうな小太りの男性が目に入った。店長だろうか。
俺が声をかけようとした、その瞬間。男の視線が、俺の隣にあるA-BOXに吸い寄せられた。
「おや……このクルマは……」
男は驚いたように目を見開くと、次に俺の顔を見て、ポンと手を叩いた。
「ああ、思い出した! あのA-BOXを買ってくれた、お兄さんだね!」
「店長、すみません、急に。ちょっと、俺が買ったA-BOXのことで、お聞きしたいことがあって」
俺は単刀直入に切り出した。
「前のオーナーさんのこと、何か覚えてませんか?」
「うーん、個人情報だからねぇ……」
店長は困ったように頭を掻いた。だが、俺が「ナビの調子がどうもおかしくて……」と必死に食い下がると、その真剣な眼差しに何かを感じ取ってくれたようだった。
「……分かったよ。実は、あのクルマ、ちょっと変わっててね」
そう言って、店長は事務所のパソコンを操作しながら、記憶をたどるように語り始めた。
「まず、うちのシステムなんだけどね。あんたにこのA-BOXを売った記録はある。でも、その前の『仕入れ』の記録……あれ、確かに入力したはずなんだけど、なぜか消えちゃってるんだよ」
「えっ!?」
「そうなんだよ。それで、よくよく思い出してみたら……このクルマ、オークションや下取りで入ってきたんじゃない。ある朝、店の駐車場に、鍵が差さったままポツンと置かれてたんだ」
衝撃の事実に、俺は言葉を失う。
「ダッシュボードには、一枚のメモだけ『この子と対話できる、次のドライバーへ』ってね。警察にも届けたが、盗難車じゃないし、所有者も現れない。結局、うちで新規登録して、新古車として売ったんだよ」
そして、店長は決定的な一言を告げた。
「だから、厳密に言えば、あんたの前のオーナーは『存在しない』。あんたが、このクルマの最初のオーナーなんだよ」
「……そんな、バカな」
「でも、走行距離は1万キロでしたよね?」
俺が絞り出すように尋ねると、店長は深くうなずいた。
「そうなんだよ。登録した時には、もう1万キロ走ってた。正直、気味が悪いから、相場よりかなり安くしたんだ。ごめんなぁ、力になれなくて」
結局、前のオーナーが誰なのかは分からずじまいだった。
だが、俺の心には、確かな手応えが残っていた。
「存在しない、前のオーナー」
「『この子と対話できる、次のドライバーへ』という、謎のメモ」
「そして、誰が走ったのか分からない、1万キロの走行距離」
A-BOXに戻ると、アンナが心配そうにこちらを見ていた。
俺は彼女に向かって、力強く笑いかけた。
「大丈夫だ、アンナ。これで一歩進んだ。お前の謎、絶対に俺が解いてやるからな」
《……はい、ご主人様!》
アンナの声には、確かな光が戻っていた。
俺は、新たな決意を胸に、A-BOXのアクセルをゆっくりと踏み込んだ。
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