第24話 湧き水は甘くてナビはしょっぱい?

 原津温泉への旅行から、数日が過ぎた。


 九月も終わりに近づいているというのに、太陽はまだ夏の名残を惜むかのように、じりじりとアスファルトを焼いていた。


 クーラーの効きが悪いアパートの一室で、俺はフローリングに大の字になって伸びていた。


「あー……だめだ、とろける……。どこか涼しいとこ行きてぇ……」


 その、誰に言うでもない呟きを、もちろん俺の相棒が聞き逃すはずもなかった。


《ご主人様! その願い、アンナが叶えますわ》


 どこからともなく、しかしはっきりと、アンナの快活な声が聞こえる。

 もう、キーから声が聞こえることにも慣れてしまった。


《青並市の誇る都並山(つなみやま)の麓に、地元の人ぞ知る、それはそれは冷たくて美味しいお水が湧き出る名水スポットがございますの! 天然のクーラーで涼みに行きましょう♪》


「名水スポット?」


《はいっ! その名も『大沢(おおさわ)の銘水』です!》


 アンナの提案に、俺はむくりと体を起こした。

 確かに、山の中なら涼しいかもしれない。


 こうして俺は、相棒の甘い誘いに乗って、A-BOXを走らせることになった。


 * * *


 ハンドルを握りながら、俺はルームミラーに目をやる。

 そこには、原津温泉で貰った木彫りのお守りが、ことことと小さく揺れていた。


「しかし、じいさん、なんで分かったかねぇ……」


 助手席にかわいいお嬢さんがいる、なんて言われたこと。

 俺は、あれがただの偶然とは思えなかった。


《ふふっ、ご主人様と私の絆は、隠そうとしても滲み出てしまうものですわ♡》


 ナビ画面の中で、アンナが誇らしげに胸を張る。


「はいはい、相棒、相棒――」


 俺がそう言ってやると、アンナは「えへへっ///」と、今までで一番嬉しそうに、はにかんだ。


 車窓から見える景色は、まだ夏の緑が濃い。

 けれど、田んぼの稲穂は重そうに頭を垂れ、黄金色に色づき始めていた。空は高く、雲の形も、どこか秋めいている。


 そんな、季節の狭間をドライブするのは、存外に気持ちが良かった。


 * * *


 都並山の麓、木々に囲まれた一角に、その場所はあった。

 数台停められる駐車場には、すでに先客の車が二台。傍らでは、大きなポリタンクに水を詰めているおじさんの姿が見える。


 車を停めると、じりじりと照りつける日差しとは裏腹に、ひんやりと湿った空気が肌を撫でる。


「うお、涼しい…!」


 岩組みから突き出た数本のパイプから、絶え間なく清水が流れ落ちている。その周りだけ、まるで別世界のようだ。

 ジリジリと鳴く蝉の声に混じって、ツクツクボウシの涼やかな声が聞こえる。


 俺は早速、備え付けの柄杓で水を汲み、ごくりと喉を鳴した。

 冷たくて、ほんのり甘い味がする。


「うめぇ……!」


 次に、流れ落ちる水に直接手を入れる。突き刺すような冷たさに、思わず声が漏れた。

「うおー、つめて!生き返るー!」


 俺が子供のようにはしゃいでいると、一台の軽自動車が駐車場に入ってきた。

 運転席から降りてきたのは、俺と同じくらいの歳の、快活な雰囲気の女の子だった。ショートカットがよく似合っている。


 彼女は空の大きなペットボトルを数本抱えて、少しよろめきながら水汲み場へやってきた。

 そのうちの一本が、手から滑り落ちそうになる。


「おっと、危ない」


 俺はとっさに、そのペットボトルを支えてやった。


「あ、ありがとうございます! 助かりました!」

 彼女は、太陽みたいな笑顔でぺこりと頭を下げた。


「いえいえ、どういたしまして。すごい量だね」

 悪い気はしない。俺は少し照れながら、彼女が水を汲むのを手伝ってやった。


「ここのお水で淹れたコーヒーが、すっごく美味しいって友達に教えてもらって! つい、張り切っちゃいました」


 他愛もない会話を少しだけ交わして、彼女は「じゃあ、また!」と手を振り、颯爽と車で去っていった。


 ほんの数分の、ささやかな出来事。

 俺は「いい気分転換になったな」と、満足してA-BOXへと戻った。


 * * *


「よーし帰るか! いやー、涼んだ涼んだ!」

 ご機嫌で運転席に乗り込んだ俺を待っていたのは、沈黙だった。


 ナビ画面の中のアンナは、頬をぷくっと膨らませて、むすっとしていた。


「お、おい、どうした?」


《――別に。ご主人様、とっても楽しそうで、何よりでしたわね》


 その声は、いつもよりワントーン低く、感情が一切感じられなかった。


「なんだよその言い方。お前、またヤキモチか?」


 俺がからかうように言うと、アンナはゆっくりとこちらを向いた。

 その表情は、これまでの拗ねた時のような可愛らしいものではなく、見たこともないほど、冷たいものだった。


《違います。ヤキモチという非合理的な感情ではありません》


「じゃあ、なんなんだよ」


《ナビゲーションAIとして、ご主人様の安全を確保するための、論理的な警告です》


「はぁ? 警告?」


《はい。先ほどの女性個体との接触時、ご主人様の心拍数および体温に、危険領域に達するほどの急上昇を検知しました。よって、当該個体との今後の接触は、ご主人様の心身の安定を著しく損なう可能性があると判断。ナビとして、強く禁止勧告をいたします》


 訳の分からない理屈で、早口にまくし立てるアンナ。その剣幕に、俺は思わずたじろいだ。こんなアンナは、初めて見る。


 カー用品店での、あのかわいいヤキモチとは、明らかに何かが違った。


 俺は、どう返したものか分からず、ただ、ルームミラーに揺れるお守りに目をやった。

 そして、ぽつりと呟いた。


「――はいはい。俺の相棒は、お前だけだよ」


 その言葉が、まるで魔法の呪文だったかのように、アンナの凍てついた表情が、ふっと揺らいだ。強張っていた肩の力が抜け、ゆっくりと、いつもの柔らかなメイド服の少女に戻っていく。


 けれど、その瞳はどこか潤んでいて、俺の顔をまっすぐに見ることができないでいた。


《……はい、ご主人様。その……通り、ですわ……》


 かろうじて絞り出したような声は、まだ少しだけ、震えていた。


 俺たちの間に、気まずいというよりは、どこか戸惑いを含んだ沈黙が流れる。

 帰り道、いつもなら賑やかな車内は、嘘のように静だった。夕日が長く影を落とし、ルームミラーのお守りが、時折きらりと光を弾く。


 俺は、さっきのアンナの顔を思い出していた。


 あれは、ただのヤキモチじゃない。もっと、切実で、必死な、何か。ナビのくせに、なんて言葉ではもう片付けられない感情が、そこにはあった。


 湧き水はあんなに甘かったのに。


 どうしてか、車の中に残った余韻は、少しだけしょっぱくて、切ない味がした。


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